見上げたことはある、指呼の間にその穂先を望んだこともある。
登った体感を身の内に取り込んでいない、だからこの山が皆の言うようにいい山かどうかは判らない。
その体感をどのように得ようとするのか、それが一大事である。
今、時間をみて過去記録をヤマレコ上に載せてしまおうと躍起になっているところだが、懐かしい山行を思い出した。『国土地理院五万図二枚分を、南から北へ。』
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-29346.html
その際に、槍ヶ岳を間近で登れるタイミングが有ったが、天候不安と日程縛りで見送り下ってしまった経験がある。これを「山は逃げる」という。虚しくも馬齢を重ねて早15年、行っておくんだった。
2002年10月、沢渡起点霞沢遡上からその名の付された山頂へ、K2/K1にも登頂して初めて向こう側の「神垣内」へ入り込んだ。
話を聞かない二ノ俣谷へは是非行ってみたかった、人の往来する街道に人知れず流入するその谷へは。何もない谷だったが、何も無いからと言って価値の無いことと同意でないことが沢登りの示す豊かさだろう。清浄なる空間を一人、心底満喫した。
後輩から読み方を教わったオテンショウへはその沢を登路とした後、貧乏沢を下降して天上沢へ。千天沢を合わせた水量多い水俣川を渡渉に気遣って湯俣まで下降し、国指定天然記念物温泉に浸かる。翌日、高瀬ダムまで歩き通して五日間の山行と成した。
以下、ここだけの話、私だけの秘密。
大天井岳からの下降には、大系に写真有る中東沢(ナカヒサワ)を予定していたものの「汚物垂れてるヨ」と小屋管に言われてヤメにして貧乏沢に転身した経緯があった。
貧乏沢から天上沢へと降り立った・1774地点から更に下降を続けると、右手斜面に牛首山から圧せられた水がサラサラと帯を成して湧出している楽園のような場所が現れてそれはそれは感激したものだった。ああっ、ここに泊まって槍ヶ岳に行くのが槍への私だけの愛情ラインかもしれない、とその際天啓を得たものの槍は元より計画外で当時のその日は翌々日の学習塾が気掛かりな事と天候の不安とを理由に湯俣温泉目指してツッタカ下ってしまったのだった。
やり方次第では出来ないことはなかった。それ位に自由度の高い塾仕事だったから。
なぜあの時の私は、湧水地でもう一泊して槍ヶ岳をアタックしてから下山する気持ちを押せなかったのだろう? また何時だって来られると思ったのも確かで、何にせよ敢行すべきであったと今にして思うし、それこそを「若気の至り」と言うのだ。
今年は深田久弥百名山と縁あったこともあり、登ってみたいところである。
遠からず再訪の機会を持ちたい。
ごく最近作成した山行計画は、深田久弥も辿った部分のある沢を交えた常念〜槍ヶ岳ラインなのだが、図らずも今回のそれは東から西への線となった。
赤沢山、登る人おるんかぁ。クライマーだけかと思ってたが百高山というのがあるのね。
yoneyama さん、飛騨抜けでない改変計画で如何でしょうか?
あ、これで行きましょう!
じゃ、これで行きましょう。
自分、槍の穂先を、夏の一般ルートからは何回も登っているのだけど、積雪期には登ったことがない。
3月に、表銀座を単独縦走したり、硫黄尾根を登った事もあるのだけど、いずれも悪天の為、穂先には行けなかった。
正直、積雪期だとしても槍の穂先くらいは何時でも行けると思ってました。しかし、今となっては一般ルートからでも穂先は遠いなぁ(笑)。まあ、諦めた訳じゃないけどね。
シェイク様
硫黄尾根行きましたか、羨ましい。北鎌なんかより余程辿ってみたいラインです。
諦めずお越しの際には拙宅をご利用下さい。
天気も雪の状態も良くて、硫黄尾根は拍子抜けするほど、あっさり抜けたのだけど、その後、爆弾低気圧と寒気により天候が大荒れで、西鎌の方がずっとやばかった。ホワイトアウトの中、両側に張り出した雪庇帯を通過したのだけど、見事に踏み抜きました(笑)。
その頃、里にいた山岳会の仲間は「あいつら、遭難したのでは。」などと心配していたと、下山後に聞きました。
北鎌に行ってないのは、心残り。これはもう無理だなぁ。
いつか飛騨沢を滑ってみたいので、その際には寄らせていただきます。
やいやいや北鎌、諦めずサイトーさんとでも来春お越し下さい。yoneyamaベェスも出来たことです。
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