かつて読んだどこぞの映画監督のインタビウ記事に、毎度の食事がカレーでも一向構わないいや、むしろ三度の飯がカレーなら人生言うこと無し、といったものがあって「へぇ、そんなもんかい」と思ったものだったが何のことは無い、今の私もそうである。毎食カレーでも問題ない、生活習慣とも言える位にはなった。
いや、「加齢」の話だった。
50を前にして最近、よくモノを溢(こぼ)したり倒したりするようになった。老眼もかなり進んだ。
先週末、ラーメンを食べている際に持ち直した小丼をツルリ持ち損ねてブチ溢した。自宅で一人だったので黙々と片付けをした。
加齢とは関係ないけれど、山行を共にするyoneyamaサンがかつて、中国製水筒の熱々茶をマックPCキーボード部に盛大にブチまけた話も思い出した(意外にもその後乾かしたら復活したそうで)。
今日は今日とて、引っ張り出してきたBuddy Childersの2in1のCDをビールを飲みながら久し振りに聴こうと注いだ矢先に指で引っ掛けてバタンと倒してすぐ横に置いたCDをビール塗れにしてしまった! アーノルド・ロスに泡踊りさせっちまったヨ。まぁ、オリジナル盤に浴びせたわけでもないので声は出さなかったけれど、別の感慨が湧いた。
これまで、山(登山、山仕事)の中でも持ち前の慎重さ?によって不注意で怪我をするということを回避してこられたわけであるけれど、歳と共にちょこちょことこの手の小怪我をするようになってきた。自分の中での唯一の武器とも呼べる性質であったのだが。
ラーメン丼ブチ溢しの時、咄嗟に思ったのは、澤田さんの滑落もこんな「えっ、こんなケアレスミスこれまでしたことなかったのに」という感じのモノだったのかもしれないな、という気付きだった。あれ程の運動反射神経、体力持久力を以てしても起こしてしまうのだ。
滑ったら止まらないことは勿論認識してはいる、これまで事なきを得てやり過ごしてきた経験の上で今の自分が在る。アイゼンを装着し、ピッケルの持ち手も確認の上で、だからここでもきっとそれをやり過ごすことが出来る、と。
それが自分の意志と反応とが些かの解離をして「あれっ?」という機会が増えてきた。
今はまず、それを意識したい。
そう、心も体もいつまでも若くはないのだ。過信慢心禁物。
昨日も山で木を伐っている最中に、経験の範囲を越える事態は起きないことは判っているのだが、その半拍遅れる身体の反応にヒヤリしたものだった。あんなのに踏まれたら「痛い」では済まない。弾かれたら「キャッ」では済まんのだ。ツッタカ下って25分掛かる山をそんな体で降りるのに一体何時間掛かろうか? そんな想像もしてみた。
真鍋昌平の名作『スマグラー』の「背骨」が意に反して「ジョー」に撃たれる際に挙げる声「あれっ?」ってな感じで、大怪我するのだろうか? と。痛いのは避けたい。だからといって仕事をしないわけにもいかない。
そう、いつまでも若くはない。滝頭では特に留意したい。
一手必殺のクライミング、車の運転、内燃機関の動力装置、こういうようなのはなるべく遠ざけて行くべきかもしれない。ラーメンくらいで結構でしょう。
こちらはここ数日、難聴耳鳴りめまいが酷いです。
そう、烏龍茶くらい結構。チェーンソー、自動車は高齢者ドライバーならずとも第三者に迷惑かけるなら自粛すべきでしょう。
難聴耳鳴眩暈は山行くと治るとか。それもできるだけ長く。
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