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先週、家内のFB上で、遭難騒ぎを起こした私の今夏の山行を経ての思いの丈が披露(吐露)された。その山行は↓
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3443689.html
そのFB文のテーマは「パートナーシップ」で、家内にしては結構な長文だった。17回目の結婚記念日当日にそれは書かれた。
我々当事者の思いとは違った感じ方が綴られており、やはりこういうのは書いてもらう価値がある。話すのではなく、書き付けると残る。思いは、重い。
夫婦という他人は同じ空間で息をしていながら違う風景を見て暮らしている。夫婦間での家族、殊に子供達に掛ける思いの量や方向や重さが結構、いやかなり違っているし違っているものと家内に認識されている。正しいともいえるし、ちょっと待ってくれ、という部分もある。
今はそれを訂正しようという場ではない。
こんな行があった。
『夫は、おそらく山で死ぬことがあっても《ある意味》非常に満足して死んでいくだろう。
子供たちのことも「オッカァがいれば安心だ」と《ある意味》私を非常に信頼し、かけらも心配することなく死んでいくだろう。
それなら、夫の人生は《ある意味》大成功じゃん。超幸せじゃん。
私だって、自分の人生に満足したい!!!』
以下、自分の感情に向き合ってそれを整理し以降、自分がどう暮らしていけばいいのかの結論付けまでしている。ひょえぇ〜。
これを読んで、自己中心の考えをする私が何を思ったかと言えば、ここ最近の倦怠感の一因が自身”現状に満足している”ことにあると気付いたことだった。
家族については不登校気味の子供たち、とはいえ五体満足で暮らしている。明るい兆しも見受けられる。
家内は私より頑丈であるし、弁も立つ。料理も早いし食べるも早い。政治経済に強いが家計には明るくないかもしれない。
自身、未だ未だ山に賭ける思いはあるけれど、20代の時のようなチンチンに熱く滾るような思いは正直、失せた。50を過ぎて、年相応の山行にギアが落ちている。
剱沢にも棒小屋沢にも行けたしザクロ谷にも不動川にも行けた。日高山脈にも納得する程度に通えたし登れた。滝ノ内沢や柳又谷上ノ廊下には行けていないけれど、それはもう別の話だ。仕事はキツイ、が危なくて面白い。こんなご時世に、贅沢を言い出したらキリがない。地球は高温化しているし、化石燃料焚きぃの食い散らかしの贅沢三昧の暮らしを追求する時代は終わった。倹しく清貧に、けれど心だけは豊かさを求めて。
これまでどうもありがとう。感謝しかない。
そんなことを、村上春樹氏がお好きだというゲザ・アンダGéza Andaの参加するレコードを聴きながら書いた(一枚だけ持っていた)。
おはようございます。
上記のやうな表現がありますが、わたしはこの言葉を全く信用していません。「大好きな海で死ねたら」「山で死ねたら本望だ」と甘ちゃんロマンチストはよく口にしますが、実際その場に遭遇したなら、人間だれしも失禁垂れ流し状態に陥りるでしょう。惨めで、むごたらしくて苦しいものです。小鳥がさえずるお花畑の天国なんてどこにも無く、鞭打ち石投げまた裂きの拷問だけです。死ぬのは病院のベッドの上で、家族友人に見守られて「それでは、みなさんご機嫌よう」が一番だと思います。
海でも山でもその一歩手前の景色を見たことがある者の意見ですから、本当です。
以上。
私自身も山で死ぬのは本望ではない、です(マースケさんのコメント文頭は、家内の言です。)。
畳の上で、生きるジタバタを演じて死んでいくことと自身、想像します。
今朝方書き付けた「懸案」にもありますが、互いに覚悟をしておくのは悪いことではなく、唐突に訪れるであろう危機に際して身を処しておきたいというのが今回の日記です。
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