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昨夜来の雨で春霞も取れ、この滝波山近くの現場からは御嶽、乗鞍、穂高が望まれることを知った。雪の衣を脱ぎつつある山々を眺めながらの作業となった。
昨年末から手掛けて4月上旬に終えて以降この三週間、あの大滝登りが私にとってどんな意味なんの意味があったのか、そればかりを考えてきた。飯を食う時、風呂に入りながら、呑みながら、そして作業中も。
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小鹿滝は、不思議なことに私の感覚の中でどうしても登りたいと思い続けた対象であった。何故、眺めるだけで済ませられないのか。クライマーでもない私が何故、登りたい登らなくてはと強く思ったのか。
3m弱ある杉苗に麻縄をV字に掛け、渾身の力で引き上げて、梢がグイ〜と鉛直に持ち上がったのを見計らって枝に麻縄を巻き付けて苗起こしを完成して息を吐いた刹那、血管が切れた、のではなくて問いに対する答えが私の梢、いや頭頂部に降りてきた、気がした。気のせいか?
熊野へは2016年以来、毎年欠かさず訪れてはその度毎に目を見開かされる思いをした。毎度、新しい発見があり、新しい気付きがあった。今回の件もその一環といえる。神社、磐座、古道、温泉、波打ち寄せる海岸、大峰の山並み、歪曲した木々、野生の動物、野生ラン、湧水等々、見所も多く全てを見て回れたわけでは決してないけれど、熊野は私の心性に訴えかけるものの多い、相性の良い場所に思われた。ただ私は欲深い人間で、もう一歩踏み込んで熊野と心通わす体験をしたいと望んでいた気配は正直、あった。そんな思いの下、熊野という神おわす地で、私だけの特別な場所を欲したのかもしれない。自分だけの祈りの場、自分だけの信仰、私だけの神棚、私だけの神殿。「騎士団長殺し」のメンシキさんでもないけれど。自然崇拝の象徴ともいえる滝という御神体に触れ、彼女と直に対話するように滝を登る。下から上まで。その神の依り代(よりしろ)がごく近年新たに出現した滝とあれば、私にとっては決して逃してはならない対象に思われた。
拙宅前の学校校庭で開催される野球やサッカーの試合を眺めていて思う。これら球技がボールを介した人と人とのコミュニケーションの手法なのだとするならば、滝を登ることは三ツ道具を駆使しての彼女との対話であり、互いの想いを通わす親密な行為ではないか、と。
思えば私は、二十台の頃に意図せず岩を登るという行為を覚えた。カヌーでの川下りを志して門をくぐった大学で、興味も関心もなかった山登りに手を染め、今ではその一環で習った岩登り術を駆使して岩や滝との交感を図ったのだ。あの滝も、そしてこの滝も。
思い描いた登山を終えると、私の中では山を呑み下す感覚を得ることがある。身体に山全体を取り込めたような、そんな意識が。いや違う、山と一体化した体感か。渾身の山と言うにはおこがましいけれど、注力して成した今回の一連の山行では特にその意を強くした。
お二人との登攀を終えて滝頭を去る際、手を合わせた。
これを越える会心の山行が今後また成せるといいのだが、どうだろう。
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