今月号岳人誌の本の紹介欄で、今頃になって藤原さんの「ぶらっとヒマラヤ」の掲載があった。それはさておき、その隣に気を惹くカバーの「嵐と灯」(静岡新聞社)の掲載があり、加藤三郎と言う方が所属した富士宮山岳会での山行ついてお書きと言う。
富士宮山岳会!
27年前に地球一周した際に共にチベット越えした望月氏の、その父上がクライマーであり、唐沢岳幕岩で墜死した話はいつか書いたと記憶する。
https://www.yamareco.com/modules/diary/1946-detail-258065
その忠氏の所属が富士宮山岳会であり、私には他ならぬ縁の本と思って購入して読んだ。予想の通り、忠氏は登場していた。
帯には、真実の物語とも小説風に綴ったともあり、どっちなのよ?と読み始めた。当時の社会人山岳会のレベルと言うものがどれほどのものか分かりかねるのだが、一地方の山岳会としては冬季登攀に力を入れた熱量ある集まりと読んだ。
ピッツバディレ北東壁、ここには(リカルド・)カシンルートがあり、ここを這う這うの体で何とか完登した(日本人初?)後下山して、藤原さんもインタビューしたことがあるというカシン御本人と会ったエピソードが載っていた。当時はキャメロットもエイリアンも持たず、岩角やハーケンのみのプロテクションだったろう、クラック主体のルートのようだが、これを三人で登るのだから時間も掛かったことと思う。
個人的には下山後のエピソードや、ピッツバディレ前プモリ後のヤエッタラー家との交流が読んでいて胸に迫った。
上下関係の厳しい当時の山岳会だけに、加藤氏より年長の望月忠氏は随分と威張っている様子で書かれており、筆者の反抗心も手伝ってか文中では「タダシちゃん」呼びしてある。チベットで行動を共にした望月さんは「スマル亭」のCMの真似をしてくれるような至って面白穏やかな人だった。
「尊敬する仲間達へ」では、望月忠氏をはじめとして山で命を落とした人たちを追悼している。尚、餓鬼岳とある望月氏の遭難場所は正確には唐沢岳、である。何にしても、こうして紙媒体に記録が残ったことは慶賀に堪えない、とは言い過ぎなまでもヨカッタ。
登山とは、肉体を上へと持ち上げて位置エネルギーを獲得していく行為であり、ひとたびそのエネルギーが墜落という形で解放されるや一気に肉体や家族をも破壊する結果となる。当時のプアプロテクションでは止めようもない荷重と思われ、今のカムデバイスや堅固なボルトを思えば死も無理からぬ結果と思われる。翻って当時の登攀とは、止まりようもないプアプロで落ちたら仕舞、落ちないであろうことを念じつつの極めてデリケート且つ大胆な行為だったのだろう。合掌。
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