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この季節の積雪が有利に働く狩猟活動はまだしも、敢えて生活や活動上不利な環境(冬山、雪山)に入り込んでいく登山は(化石燃料由来の化学繊維を主として守られた装備を身に付けた上で)、自由さや有利な点があるからこそ発展し継続してきた形態に思う。登山発祥の欧州も、発想自体は同様と思われる。アルピニズムはその尖った一派ではないか。
雪によって覆い隠された密叢を逆手に取り?、スキーやワカン(やスノーシュー)を駆使して、夏期には実践できないルートを採って自由なラインから山頂を目指す雪山登山。
冬山は、地図を見て夏にはできない登山を自由な発想で組み立てられる創造的行為なのだと思っている。
寒さにめっきり耐性を無くした私がここ近日、そんな自由なラインを歩く雪山計画を練っている。計画を作成するだけでも楽しい。山登りの醍醐味の一つだろう。実践して成功すれば尚のこと。
多くの積雪が望めるこんな時こそ、私には長年温めている計画がある。すぐ傍を何百人もの人が通過していながら、あんなにも目立つ場所にありながら誰も手掛けないのは何故か?
ネットに(初登の)記録が掲載されるや俺もワンデイでシュッと行ってみよう、ではなく地図を睨んでもっと自由に山行計画を練って作って自分だけのオリジナル登山を実践するのが本来の冬山、雪山登山なのだと思う。
追体験を熱望するならまだしも、わざわざ人の真似をする必要なんてどこにもない。効率?
21世紀の今現在でも、未踏の尾根や渓谷なんて未だ未だ沢山ある。無いと言い切るヒトは単に勉強不足なだけである(それが魅力的かどうかはまた問われるのだけれど)。
「自由を謳歌する」ことが、情報に溢れた21世紀だからこそ困難に思える。情報は時に麻薬である。情報の海に溺れる。無いとソワソワしてしまうのは禁断症状の表れだろう。情報は目的ではなく手段である。
『片隅に生きるということは本当に素晴らしいことなのだ。悪の影響は薄まり、思い上がるということなく且つ、基本的な自由を謳歌できる。自由のない生活など、人間の基本的な幸福さえ拒否されているということだ。そのような職業(例えば政治家)に就きたがる人の気持ちが私にはどうしてもわからない。ささやかな悪行が、ささやかにできる場所にいないと人間は囚人になってしまう。【曾野綾子の言葉】』 自転車で転ぶ自由。雪山に惑う自由。
曾野綾子氏が亡くなったと、今日の新聞にあった。日曜に上記曾野氏の文章を探して再読したばかりで、その偶然に驚いた。合掌。
毎年雪が多いと良いのですがね!
今朝方、オッカに指摘を受けたばかりというのにまた間違えた! ヤバいなぁ。
雪が多けりゃあちこちにラインが引けて楽しいんですが、近年の寡雪傾向はそんなささやかな楽しみも奪います。今年は溶けが早くないことを祈りましょう。
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