|
|
|
豊橋の師団が創設された1905年は日露戦争で軍拡の頃です。陸軍の組織で、連隊というのは、県に一つくらいの数があるのですが師団というのはその上の所属クラスです。町でいえば東北に一つ、九州に一つ、くらいの割合で東京仙台名古屋大阪広島熊本旭川と、はじめ第7師団まで配置されました。軍拡でもう一回りして弘前金沢姫路善通寺小倉で第12師団まで。さらに追加された6つ13、14、15、16、17、18が高田宇都宮豊橋京都岡山久留米です。
連隊や師団が町に来るというのは、経済効果と町の発展に関わるマネー問題なので、大変な誘致合戦があったそうです。
しかし第一次世界大戦が終わり、長引いたシベリア出兵が収まった1925年、世界的な軍縮の流れのワシントン条約で日本も師団を減らすことになって、高田と豊橋、岡山、久留米が20年間で廃止になりました。豊橋の広大な敷地はその後20年間、陸軍予備士官学校になりました。
戦前、上海に1901年創設の東亜同文書院という日本の国際教育機関(大学)があって、広くアジアに目を向けた5000人の学生を輩出しました。辛亥革命の孫文も深い縁があり、上海事変で校舎が焼けたりしていますが、敗戦とともに国内に引き揚げて、ここの陸軍跡地で愛知大学となったそうです。東亜同文書院の修学旅行というか卒業研究というか、中国全土を旅行して紀行を残していた活動が展示されていました。この時代の中国奥地の旅行は、まさに探検です。サクッとした紹介でしたがここのところに一番興味を持ちました。
愛知大学といえば一定以上の年齢の人なら、本多勝一のスクープで知られる、1963年薬師岳愛知大学山岳部遭難を思い出すかと思います。僕ももちろん同時代では知りませんが、本多ボンで知りました。愛大山岳部は、これ以降なくなったそうです。
この古い建物、100年以上ここにありますが、やっぱり上海から引き揚げてきたバンカラ学生がマントをかぶって下駄履いていた頃が幸せだったのかもしれません。今は余生で、記念館です。
退屈な話かもしれませんが、自分のまとめとして書いておきました。
古い建物がちゃんと管理されて残っていると嬉しいです。昔、ここでどんな事があったのか?といろんな想像してたらあっとゆうまに時間が過ぎてしまいます。父方の祖母祖父両家が全員職業軍人でしたので、遺影は全員軍服、調べると靖国神社の会館の壁に祖父と叔父の写真がなかったのでパネルにしてもらいました。外孫のさらに父が養子に出たので他の大叔父や曽祖父までは履歴見れずです。遺族年金も貰っていた後継の長男の系列は全く興味がないみたいで、厚生労働省に調査してもらうときも外孫だと苗字は違うし二人との関係を説明書き、戸籍も全てとり大変でした
う〜む、大変でしたね。
愛知大学の薬師岳遭難の事は当時の新聞に大きくのっていた記憶が有り、確か道に迷ったのが、原因で寝袋に入って居るのが見付かったと記憶しています、もし間違っていたら失礼します、
ナイデンさん、お久しぶりです、コメントありがとございます。愛知大学の遭難は人数も多く、悪天が続いて安否不明の期間も長く、大変世間で話題になったと聞いています。山頂から下る尾根を間違えて全員が疲労凍死した模様です。中にはビバークで、寝袋に入った人もいたのでしょう。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する