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狭い渓谷の両岸に張り付く路地だらけのナポリや函館みたいな立体都市。軍艦島のようでもあり戦国山城跡も当然いくつもあり。木曽川に張り出した、行人橋周辺は、道路の川側に空中楼閣のような建築があり、木曽崖屋建築と呼ばれ、いま古いもんずきの世代に人気のスポットです。以前は見てほしくないウラ面だったのですが。チベットのポタラ宮殿に例えるのもなんですが、ハウルの城的な自然発生無軌道性が美しいと思います。
警戒水位を超えても、ハウル城まで浸水することもなく、災禍は過ぎました。やはり数百年前から人が住み続けているところは確かです。ヤバかったのは戦後の高度科学技術で造成、掘削した宅地や自動車用道路でした。
この街も崖屋作りができた昭和中期には人口最大期だったけど、あと10年もすれば中心ストリートの年寄りがみないなくなるだろうと聞きました。どうなっていくかはわからないけど、2018年夏の木曽福島は記憶に記しておこう。木曽崖屋建築とは↓
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1120606-d1910253-Reviews-Gakeyazukuri_no_Ienami-Kiso_machi_Kiso_gun_Nagano_Prefecture_Koshinetsu_Chubu.html
おすすめの食堂:木曽町文化センター(図書館)の前にある看板無し無記名ノレンのみの旭食堂。安くてうまくて大盛り。とんかつ定食もカツ丼も、肉がでかくてお値段以上のお値打ちと思いました。
https://ameblo.jp/fumifumi7272/entry-10152932630.html
ノレン無記名でしたが、このサイトでは旭とある写真が。色あせてしまったのでしょう。
木曽川は鉢盛山より流れ出で、滑川、王滝川、伊奈川、柿其川を集めて太く太くなり、南木曽では既に大河だった。王滝川以外どれも源流を登ったことがある。
写真は、信州大のゼミで崖屋建築の値打ちを発見、調査した小冊子500圓です。木曽福島のやま路書店で買い求めました。
こんばんわ。
今回の西日本全体を襲った豪雨災害を
みるにつけ、かつて科学土木技術が
貧弱だった頃に培われた減災の思想を
今こそ思い出すべきではないかと。
武田信玄に学べ!!です。
まさに
圧倒的なH20の大気中の存在感、流動する物量感、目が回る濁流、眺めていると飽きない美しさでした。
ヘタな技術が通じなかった時代は、一般的に、住めないところには慢心せず住まなかった様なのですが、信玄堤は、その後破られた話を聞きません。甲斐市竜王には、もう数百年の佇まいの集落がありました。すごいですね。
武田軍は、上洛してしてないから、関西方面には、子孫も含め、武田の知恵は少ないかも
よねやまさん おはようございます
古来からの宅地、先人の知恵をおもいます。
広島の地質は過去多くの水害を受けてきましたが
近年の造成には自然への畏怖なし、です。
わが家は築90年で地震には自信ありませんが(-_-;)
神社の記録で宅地としては数百年経っています。
山と川の位置を考慮してあるので
裏の川の警戒水位は何度も超えていますが
これまで被害なく暮らせているのは先祖のおかげです。
現在のハザードマップにおいても近隣の赤色から
絶妙に外れています。
昔の地名に「悪谷」「死人谷」など先人からの警告のあるところ
地名が消えてしまい普通に団地造成されています。
東北の津浪のときも
「ここから下に家を建てるな」
の石碑が悲しく映りました。
再び、広島は砂の上のまちであることを自覚せねば
と憂いています。
いいね👍
家が浸かってしまったり大事な人を亡くした人がいるときにそもそも住み場所の話も心苦しいですが。今後のためにも忘れてはいけないことと思います。
地名を替えたりはいけません。忌まわしい名前には意味があると思います。
三陸津波のときにも、1960年代のチリ地震津波の慰霊碑が丘の上にあり、その周りの宅地がザブザブになっていました。津波の形を写実的に掘った石彫でした。
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