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芥川が旧制中学5年生(17歳)のときに書いた義仲論が良く、改めて読んでみました。1901年。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/81_14934.html
「彼は猶、従順なる大樹なりき」ってのがいいところです。
地元信州でも義仲が京で乱暴狼藉したという説のまま低い評価の人も多いのですが、義仲が革命軍を組織して民から支持され連戦連勝の進軍をした北陸ではとても人気があるようです。
特に倶利伽羅峠で平家を圧倒した富山県などは史跡も整備されているようです。木曽町の義仲記念館で買い求めた立派な義仲資料集は富山の北日本新聞社の編集でした。
義仲マンガもあったのですが、あまりにイケメンキラキラ画風過ぎて、買いたくなりませんでした。ああいう武将マンガはちょっとどうかとおもいますよ。いまは絶版ですが、少年写真新聞社の歴史まんがシリーズの画風のほうがいいです。
木曽義仲を大河ドラマに、という運動もあるそうです。
木曽義仲は、間違いです。
本人は、木曽義仲を名乗ったことはありません。
源氏には、本来、嫡流も傍流も無いのです。
その時に、一番勢力のあった者が、勝手に源氏の嫡流だと言ったに過ぎません。
源義仲も、頼朝から傍流扱いされて、木曽義仲と呼ばれました。
仮にですが、源義仲が勝っていれば、頼朝は「伊豆頼朝」か「鎌倉頼朝」とでも呼ばれたかもしれません。
歴史とは、そんなものです。勝者に都合良く作られていくのです。
いまだに木曽義仲と呼ばれることは、本人には無念でしょう。
名字と姓はもとから違うもので、家の名前と、土地の名を名乗るのと、2つ並べるのだそうで。仁科も木曽も諏訪も、土地名を名乗っているのはそのせいと思います。源は家の名で、木曽は土地の名と聞いていますよ。
明治以降はそのどっちかを主に名乗るのだそうです。
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