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ローカル新聞のお知らせで見つけた、「信濃守護小笠原氏とその足跡」という講演(無料)を聞きに行ったら狭い会場に150人位パンパンでした。何故?そんなに聞きに来るのか?みなさんももしや肉離れ?
昨日に比べれば40代も少し。しかし大方は60代以上と見られる勉強好きなご老人の群れ。皆頗る熱心であります。
小笠原貞慶が、武田に追われて以来32年ぶりに深志に帰って(1582)「待ちに待った」から松本に改名したとのこと。僕が19歳で松本を出て、やはり32年で帰郷したので、この辺のところがシンパチコです。
弓道、馬術の礼法、作法の本家だから、諸国流浪しても厚遇され、存続できたということです。
松本にはけっこう小笠原姓が多いです。林城周辺には特に。本家はいないそうですが。
公民館で受講するというのも悪くないのですが、ふくらはぎが治ったらそろそろ城攻め山行でも行きたい。良い季節になりました。
*ま と め 備 忘 メ モ*
●信濃守護、小笠原家は甲斐源氏の流れで武田家とは兄弟関係だった加賀美の次男の流れ。現・南アルプス市(櫛形山麓)に小笠原という地名がある。これを名乗った。
●鎌倉時代は、信濃国司(朝廷任命の知事)に任命されていたが本人は鎌倉にいた。
●南北朝騒乱1333、足利尊氏の鎌倉倒幕旗揚げに参加して守護任命(幕府の任命)、守護領として筑摩郡を賜った。このときから守護所は善光寺近くの中御所→松本の井川城へ移転。
●応仁の乱1467以降は守護は京都ではなく、現地深志に定住するようになる。
●1533信濃の小笠原三派の内紛を統一し信濃の守護大名になりたかったが、長時は、ほぼ同世代の武田信玄の侵攻を受ける。16世紀は寒冷期で食料が無く、他国からの侵略が絶えなかった。
●1550山城の林城、桐原城、山家城、平瀬城が落ち、小笠原長時は上杉を頼り敗走。32年間信濃は武田の支配を受ける。1555年京都建仁寺へ。三好長慶の庇護を受ける。何度か天皇に働きかけ、信濃への復帰を願う古文書あり。
●織田信長は武田包囲網、上杉などへの連絡役として長時の息子の貞慶を使い、信濃復帰の希望をもたせる。それを示す古文書が4年前に発見された。
●武田滅亡の1582年、信濃復帰を目論むが、信長は、筑摩安曇は戦功のあった木曽義昌に賜る。しかしすぐに本能寺で信長が死ぬと、三河にいた貞慶は再び深志へ。かつての小笠原家臣が次々合流し、深志へ32年ぶり復帰。追われたときの林城ではなく、武田時代に強化し築かれた平城の深志城へ。深志を松本と改名する。父長時は帰郷間際に会津で暗殺され、帰郷叶わず、蟻ヶ崎に法名の正麟寺を建てる。
●貞慶の子秀政は石川数正の人質だった。数正が徳川→豊臣に寝返った騒ぎがあって、家督を譲り、家康と信長両方の孫娘の登久姫との縁組で、小笠原と徳川の和解をする。
●引退した貞慶も、家督を継いだ秀政も別個の大名として2つの家が成り立っていて、小田原攻めの時も秀政は徳川軍、貞慶は豊臣軍と、別の進路で参戦した。
●家康の関東移封でせっかくの帰郷だった小笠原家も関東へ。貞慶は古河で死没。信濃中世の終わり。
●関ヶ原(1600)は大きな出番無し。でも飯田五万石を拝領され移封。
●石川数正と康長が二代で松本城天守を築いた(1592)あと、関ヶ原後の石川失脚で秀政、松本に再移封(1613)で喜ぶ。
●大阪夏の陣(1615)で、家康の左翼で真田信繁と決戦した。秀政は得意の槍で善戦したが戦死、長男忠脩(ただなが)も槍で戦死。家督は次男忠真が継ぐ。菩提寺広沢寺に秀政の最後の甲冑あり。深志神社の天神に守り本尊あり。
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