泣いている女が話すのをTVで見た、心に残るインタビューだった。
松本城天守が炎上したら、と思うと泣けてきた。どんなものにも永遠はない。お釈迦さまも仰っている。いつか無くなってしまうからこその値打ちでもある。
美しいガラスや陶器を耽美する時、それがいつか粉々になって嘆く自分も心のうちに含めて見つめている。可愛い子供もいつか大きくなってひとりの人になっていく。
松本城も、明治維新と米軍の空爆と、この二度をかろうじて乗り切った。ほとんどの日本の城郭はこの二度でことごとく破壊された。しかし五〇〇年残ったからといって永遠の保証はない。
天守は戦国の遺物と思われがちだがそれは違うと思う。むしろ戦国内戦の地獄時代には天守や石垣建築はまだなく、土塁や堀切の山城合戦だった。豪壮な天守や石垣は天下統一目前の織田信長が発明した平和平定の象徴であり、それまでは築けなかった都市の中心のランドマークだったのだと思う。太平の徳川時代、天守は安国繁栄の象徴だった、と思う。焼く気になればあっという間の標的だろう。
全国各地で失われた城郭を史実に忠実に再建する動きは、考古的にも有意義だと思う。城がそびえる都市景観、町並みの設計意識も街中の人の意識も変わるだろうと思う。松本の都市意識は(都会という意味じゃないよ)天守がなくては有り得なかっただろう。
東ドイツ、ドレスデンの大聖堂は、石造建築なのに米空軍の空爆で徹底的に破壊されたが、戦後瓦礫をジグソウパズルして修復した。有名なすごい話だ。
永遠はありえない。しかし永遠に近づきたくて努力する姿には共感する。
例えば富士山の美しい姿。富士五湖や青木ヶ原を作った貞観の噴火(864年)以前はこれほどではなかったかもしれない。宝永の噴火1707年で土手っ腹に大穴が空いて少し歪になった。思えば富士山は日本人が大陸文明から離陸し始めた時代に美しく整った。この山がセントエライアスみたいに上半分吹き飛んで、浅間山みたいになっちゃったら、もちろん東京は火山灰で滅亡だけど、日本文明そのものも精神的に変わる時だろうなあなどと考えることがある。それは1000年後かもしれないけど、明日かもしれない。
きょうを大事な人と精一杯生きよう。
今晩は。
ノートルダム寺院の火災お見舞い申し上げます。ノートルダム寺院を初めて知ったのはずいぶん昔に多分テレビで見た映画「ノートルダムのせむし男」でした。せむし男が魔女裁判で処刑寸前のヒロインを救ってノートルダム寺院に駆け込み追手に「ここは聖域だぞ」と叫ぶ場面があったと記憶します。寺院内は治外法権だと認識しました。その次は多分教科書に載っていた高村光太郎の「雨に打たるるカテドラル」の詩でした。なんともおおげさな西洋崇拝の詩だなとあきれた感想がありました。高村光太郎が単純な西洋崇拝者でないことは太平洋戦争時の活動等で明らかですが、芸術家にはその時々に感動する心が大切なのでしょう。自分自身も数十年前にパリに行ったときノートルダムを見ました。現地に住む日本人がガイドするツアーに参加して説明を聞いたがほんど記憶にない。晴天で雨が降っていなかったせいもありましょうが、正直、ゴシック建築とかいうゴテゴテした様式は、むしろ廃墟となったアンコールワットのように朽ちかけた方がおもむきがでるのではないかないかと思ったりします。すなわち、諸行無常、栄華盛衰です。アンコールワットも数十年前に訪れましたが、ノートルダム寺院とアンコールワットはほぼ同年代に建設されているのですね。アンコールワットは機会があったらまた見に行きたいと思います。
子供の時の記憶では、ノートルダムといへば、せむし男ですね。寺院のことだと知ったのは、おとなになってシテ島前でした。なんとも強烈なコピーといいますか。ベルサイユといへば「ばら」、みたいな?
ゴシックはゴテゴテですが、日光東照宮もかなりゴテゴテ。アンコールは朽ちかけているのに広大すぎて管理もイージーで、マイナーな塔は結構勝手に登れたりして面白く、丸一日、人のこない尖塔の上のあたりで森を見下ろしぼーっと過したことがあります。観光名所は、穴場ポイントを見つけて腰を下ろして長居。スタスタ通り過ぎなければ、たいへん良い空気を持っています。
ランドマークという点でも、シテ島のノートルダム寺院は850年以上町の顔だったし、そのおかげで町並みも美しく倣ったのではないかなと思います。風景と化すこと、これが大事なのかな。これには長い時間が必要で、アイフェルタワーなんてまだまだ・・・。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する