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明治40(1907)年生まれの祖父は染物職人で、松本市安原町の染物店の次男だったので旧制中学中退して京都に丁稚に行き、壬生寺の近くで独立して家族を持ち工場も持った。京都で予備役招集され中国戦線に。負傷して帰るとき敗戦になったと聞いていた。37歳の輜重兵(補給係)だから後方支援で安全かというとそうでもなく食料弾薬を持っているから八路軍に狙われ常に戦闘だった話は断片的に聞いた。行軍中に大小便で列を離れればすぐにゲリラに殺されたから、歩きながら用を足した話など。でも何年何月にどこをどう行軍してどこの戦線でどう戦ったのかは、死ぬ前には聞けなかった。それが公文書に書いてあって初めて知る。他の歴史的事件の日付と照らして考えることができる。
ずっと京都在住でも、応召は本籍の松本歩兵連隊となる。昭和19年春に12歳以下5人の子供(父は長男で10歳でこのころ学童疎開した)を置いて37歳予備役招集で北支派遣軍に徴兵された。その心情はいかばかりか。下関港から釜山港へ、その後半島を北上して山西省太原へ。ここで半年後マラリアにかかり野戦病院へ送られたと書いてある。疾病は幸か不幸かわからない。それで死なずに済んだかもしれない。
結局その後の復員の下りは詳しくは書いていなかったが、前線の軍医が、発病し行動不能になり、戦線離脱するさまを、延々1ページも手書きで書いてくれている。何十人もこんなものを書いたのだろうか。軍もやはり役所、書類だけはまともに書いている。中国戦線はまだ官僚制が機能していただけ南方よりはマシだったと思う。
つくづく手書きしかなかった時代って新鮮だ。どんな悪筆でも読むしか無いし、読めるといえば読めるのがすごい。官僚的な文章とは言え死ぬかもしれない一兵卒に対する現場担当者の思いは感じた。ありがたいことだ。こんなものさえ一枚一枚書くことのできなかったであろう南方戦線の悲惨さよ。同じ松本連隊でも50連隊はテニアン島で壮絶に全滅、150連隊はトラック島で補給なしの空爆に晒された。
肉親の戦争体験というものは昨今こそ聞いておかなくてはという雰囲気も有るが、やはり昭和後期や平成初期にはなかなかできるものではなかった。絶対に家族になんか話せない、墓まで持っていくしか無い体験をするのが戦争というものではなかろうか。立ち小便の話ぐらいしかできなかったことから、語られなかった体験にこそ戦後の彼の人生観が滲んでいたのだと思う。
権威に安易には楯突かないけれど、全く権威を信じない姿勢とか、じっと人の目を見て話す彼の堂々としていた態度とか。日々を変化なく、新しい物に目移りせず、自分の仕事を朝から晩まで働き続ける職人の態度とか。お金のかかることはなんでも自分の手足でやってのけ、かといってお金だけは持っておけよ、カネが無いのは首がないのと同じだぞ、となんども言い聞かせてくれた。
来年私は、彼の孫の私が生まれた歳57歳になる。戦争が終わって20年のころに私は彼の孫として生まれた。20年なんて、この歳になるとあっという間だ。ミレニアムとかワールドカップとか言ってたあのころだもの。あれだけの敗戦をしておいて何も変わらなかった日本精神を、国の権威を常に批判していた。書類を見ていてそういうことを思い出した。
yoneyamaさんこんにちは。
>墓まで持っていくしか無い体験
幼いころの私は母方の大叔父に、戦争体験を聞いた事が有りました。
大叔父は巡洋艦に乗っていたそうで、被雷した船は大破して、大きく口を開けた船腹には亡くなられた戦友の遺体が、損傷のひどい状況で折り重なり血の海に成って居たと言う事までは教えてくれましたが、その後の事は話してくれませんでした。
大叔父は遠くを見つめた寂しい表情で、その時の事を話してくれましたが、私が「それでどうなったの?」の問いに、とても悲しそうな顔に成ってしまい、それ以上は口をつぐんでしまいました。
yoneyamaさんの日記を読んで、20年ほど前に亡くなり、すっかり忘れていた大叔父の事を思い出しました。
その後を話してくれなかった大叔父には、その後は墓に持って行くしかない、他人には話せない凄惨な出来事だったんだなと、あらためて気づきました。
久しぶりに大叔父さんの記憶をたぐるきっかけになれて、良かったです。死んだ人は時々思い出すと生き返りますからね。
昔、娘が幼稚園の時、坂の上の雲の203高地で兵隊がバタバタ死ぬシーンをTVで見ていて、「おとうさん、この人たちどうなったの?」「かわいそうだよ」といわれた時のこと思い出しました。おしばいだけど、本当はおしばいじゃなかったこと、知っているから何も言えなくなりました。
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