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チェロキーを先祖に持つ人だけでも、音楽関係だけでジェームズ・ブラウン、ジミ・ヘンドリックス、エルヴィス・プレスリー、ティナ・ターナーがいた。
https://eiga.com/movie/92880/
チェロキーを先祖に持つジム・ジャームッシュの映画デッドマンは、思い起こせば、ライ・クーダーに似たニール・ヤングのギターが、ものすごくインディアンぽかった。つながってきた!
http://www.tapthepop.net/scene/42130
先週その映画ランブルの紹介とサントラ曲をラジオで聴いてから、ずっと心のなかにアメリカ・インディアンが住んでいて、今週はその関連ばかり読んでいました。
藤永茂『アメリカ・インディアン悲史』1974 朝日選書を読み直しました。
「 父親たちの星条旗 」(2006)FLAGS OF OUR FATHERS(監督クリント・イーストウッド )で、アリゾナのピマ族出身のアイラ・ヘイズの境遇を見ました。硫黄島激戦の末、スリバチヤマに星条旗を立てたピューリッツア賞写真にたまたま写っていたアイラが「英雄扱い」に耐えられずインディアン保留地でアル中で死ぬまで。連作の「硫黄島からの手紙」の栗林中将や兵たちの物語に負けないくらいの動揺を感じました。
3月くらいからアメリカ合衆国の州界、地形などすべて頭に入れてあったので、その脳内白地図に、人口の多い順にナバホ、チェロキー、チョクトー、スー、チペワ(オジブワ)、アパッチ、ラムビー、ブラックフット、イロコイ、プエブロの各部族の大体の元の居所を据えて、強制移住の軌跡とインディアン保留地の位置、リトルビッグホーン、サンドクリーク、ウンデッド・ニーなどの場所を大体おぼえると、これまで知っていたアメリカとは違う地図が完成しました。
アメリカインディアンというアイコンは、長く長く疎まれ、本人たちの実相とは関係なく捻じ曲げられ、誤解されてきました。勇敢そうだからと軍艦、戦車、ヘリの名やスポーツチーム名やロゴにされ、悪気なく格好良く扱われても、虐げられ存在も文化も歪められた当人たちにとっては「勇敢な」オオカミやトラと同じ扱いでは不愉快でしょう。日本のみなさんが無知なのは仕方も無いことです。しかし、知れば知るほど、知らなかったとはいえありもしないものを軽蔑したり憧れたりして、済まないことをしてきた、ということがわかります。
ネット時代、検索ができて優れた書も解説も図版もいくらでも手に入り、知識自体は今週だけでいくらでも吸い込むことができました。これだけのことを脳内に地図として取り入れたからと言ってなんだというのでしょう。今の世、知識を得るというだけならかなり簡単にできる。大切なのはこれを脳内で培養して、どんな発想や知恵が発酵してくるか。これはどうなっていくのか本人にもわかりません。しかし調べずには居られなかった今週のインディアン熱でした。
Yoneyamaさん。今日は。30年以上前にテキサスにいた時、独立記念日の休暇にメキシコ国境にあるビックベンド国立公園に行ったことがあります。ものすごく暑いのでリオグランデ川をラフティングして涼んだ。峡谷のような所もあります。さすが此処までくると日本人の観光客は見当たらない。酒場のような所で夕飯を食べていると、腕に入れ墨をした男が「お前は日本人だろ」と言って握手を求めてきた。その男は「俺はアパッチだ」と言い、海兵隊にいた時に沖縄にいたと言った。初対面の日本人に「俺はアパッチだ」と自己紹介したのは日本人への親近感と自らの出自に誇りを持っているのだろうと思った。
私のにわか勉強でも、その地域は、有名なジェロニモ戦士のいたアパッチのエリアです。ジェロニモは家族全員を白人に殺されて、その後生涯を対白人戦争に捧げました。晩年は捕まって、見世物にされました。明治時代の話です。80年代は、インディアンの復権がようやく世論で取り上げられた時代です。
私も1980年代にダラスに滞在していたころのあまりにも暇な日曜日にI-35をオクラホマシティーまでドライブしました。タナー滝とキャピタルを見てから看板に誘われてインデアンシティーU.S.A.まで行きました。テントや生活様式の展示や土産物店がありました。展示によると政府により先住民が強制的にこのエリアに集められたとありました。かなりひどい仕打ちを受けた印象があります。4人のインディアンの末裔が太鼓をたたきながら踊り歌うショーがありました。入場もショーも無料だったと記憶してます。帰国直前に再度最短距離を8時間のドライブで15ドルのピアスを購入しに出かけました。店員はとてもフレンドリーで自分はコマンチだと言ってました。
僕のにわか勉強でも、オクラホマは、1830年代以降、ミシシッピ以東のインディアンを強制移住させた土地で、今も全米で最大のインディアン人口の州ではなかったかな。1980年代はインディアン復権の世論がようやく世に認められ始めた頃です。昔北海道でもありましたが、ショーや土産物で食っていくしか無かった時代です。今もたいして変わらないけれど。
シオドーラクローバーの「イシ」のことばが面白かったです、現代人に対して「賢いが幼い子供」と評してたりとか、本物の大人になるとはどういうことかという点が山岳部の体験とつながりました。ゲド戦記の作者のル グウィンの原体験とのつながりもあり面白かったです。
イシ読みましたよ。家族と死別してからずっと野山を隠れてくらしてきた人生なのに、すごいオトナなんですよね。日々の暮らしを自分の手足でっていうところが肝腎なのかも。
ゲド戦記は、調べてみたら、名古屋市内でなぜかいま上映してますね。さすが都会。仕事帰りに行ける時間です。と、調べてみたら作者のル・グウィンさん、クローバー夫妻の娘じゃないですか!知りませんでした。この人も1929年生まれかあ。最近、周りに多いのです1929年。
第一次湾岸戦争のときにアリゾナにいました。
アリゾナやニューメキシコにはリザベーション(いわゆる居留地)が多く、職場もリザベーションの近くだったので、レセプションルームにはカチナドールが飾られており、パーティションにドリームキャッチャーやサンドペイントを飾っている人がいたり、ネイティブ・アメリカンの同僚も当然いるような環境でした。
近くのリザベーションには交易所(Trading Post)と書かれた土産物屋があり、リザベーションの優遇策から、カジノのようなビンゴハウスがあったり煙草が安く買たので、しょっちゅう気軽に行ってました。
一見すると特に差別があるようには見えないのですが、リザベーションには家族が出征している事を表す黄色いリボンを掲げている家が他の地区より多く、職場の人もハッキリとは言わないものの、就職の関係で軍に入る人が多いとのことでした。
また、アリゾナ北部の方のリザベーションにはスキーリゾートがあり、ロッジやスキー場の職員の多くがネイティブ・アメリカン。別にそれが問題とされる事はなく、ネイティブ・アメリカン以外の人たちも普通に遊びに行く所なのですが、あそこでは交通事故を起こしてはいけない、なぜならば州警察の管轄外で、じもと自治警察かFBIが担当する事になるという事も行ってました。
もう30年くらい前の話なので今は多少は変わっているかも知れませんが、あまり変わっていないような気もします。
この手の話は色々興味深いのですが、あまり掘り起こすとそれをネタに何らかの要求を強硬に主張してくる人達もいるのが微妙な所です
過去の歴史を忘れてはいけないけど、それを以て未来に繋がらない主張や要求をするのは争いの元になるだけで無駄な事なんですけどねぇ。
リザベーションというのはなかなか両方の意味に取れる巧妙な言葉で、実際強制収容所であった時代も、自治区としての時代も使える言葉だったのではないかな。
こうした話は世代が絶えて初めて向き合えるようになることを、北海道アイヌで実感しました。古い世代の人は、耳を疑うような差別発言でも空気のように呼吸します。
「強硬に主張してくる」というような場合、ほんのかすかな差別意識がバレてしまって、絶望を確信するのではないでしょうか。そんな場合でも誠意を持ってこじれないように修復することは、諦めなければ不可能ではないと私は信じています。
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