山には始め道はなく、人が多く歩くと道になる。道ができてしまうと、整備しなければ危ないということで、整備できないので通行禁止になったりする。この長い過程の、途中から歴史に参入した人には、道のなかった時代への想像力がない。「整備しなければという善意」や、「危機管理責任、リスク管理の論理」は、それ自体は正しい。
アメリカの西部開拓と先住民の歴史をこの半年ほど、たくさん本を読んでみた。300年近くかけて先住民を西へと追いやり、最後にインディアン保留地に追いやった米国の歴史は、未開地開拓という善意と経済発展の論理で数多くの犠牲を出した。歴史の途中から参入した人々(生きているすべての人)には、それ以前を想像する必要がある。
道のない沢登り登山は、その話に似ている。河原の岩床を飛び、ヤブを分けていると、先住民のことを想像する。沢登りのエリアは、管理外の「本来の意味での」保留地なのである。強い移民たちにとってそこは当面、価値のない、使いみちのない場所だ。ところがそこは無垢の自然界ではない。近代登山以前の、炭焼き窯の跡や古い鉱山跡などを見つけると、更に目が肥えればそこに生えている樹木の樹相で、過去の人の営みが想像できたりする。
日高山脈が国立公園に昇格するという。私達は、保留地さえ次々奪われた先住民となりはしまいか。白神山地が世界遺産になり、指定された沢以外はほぼ入れなくなって、独自の歴史的ルートを歩いていたマタギの後継者たちは困惑した。名前を変えて経済効果を期待し、自然を守るからと規制をしておいて林道やダムはそのまま継続。撤去もしなかった。
都市近郊の日帰り里山には、国土地理院の地形図に破線で描かれていない登山道が多数ある。どれも善意で整備されているかと思えば、そうでもない。却って初めて行く者には地形図を読むほうが混乱するほど立派な道がある。標識も無い。ヤマレコの、過去のトラックにのみ、太い足跡がある。毎日通うほどの人が何人もいるようだ。都市近郊には都市近郊の掟があることも知った。
先住民になるのが嫌ならゲリラになったら どないです?
お邪魔しました。
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