![]() |
標高1000mほどだが日本海を背にして豪雪に見舞われ、広大な揖斐川の源流地帯はほとんど平地がなく、渓谷登攀者には静かで広い魅力ある山域だ。山間には、自動車道路が通る以前は数十軒ほどの規模の集落が点在していた。ここに1970年代から長時間かけて官僚たちがダムを造る計画を淡々と進めてきた。2006年完成。
ここに晩年できれば死ぬまで暮らしたいと住んでいた広瀬ゆきえさんの暮らしぶりを通して揖斐川源流域の門入(かどにゅう)という集落の「現代化以前」の営み、たとえば栃の実の渋抜き法や山菜キノコマムシに山仕事などを記している。
読み進むとそれにとどまらず、1918年生まれのゆきえさんの生涯を辿ることでわかる、何世代も続いてきた血族の持つ強さや、行動範囲の広さなど改めて知る。ダムが永遠に奪ったものの真価は、ここまで読まなければわからなかった。
14歳にして30キロ背負ってホハレ峠を越えて鳥越峠も越えて長浜の高山まで繭の出荷。彦根まででかけて女工労働。門入の仲間となら外に出るならば、北海道の真狩もパラグアイも同じなんだな。岐阜の柳ヶ瀬近くにあった徳山村連絡所の訪問もおもしろかった。
移住者住宅に移った後、ゆきえさんがスーパーの特売ネギを買わなかった話が、凄くこたえた。
「これまで自分でたくさんネギを作ってきた。人にもたくさんあげた。なのに土地も畑もとられ追い出されてお金だけもらって、なんでスーパーで特売のネギなんか私が買わなきゃならんのだ?」
晩年、ついに追い出されるまでの門入での、誰もいなくなってしまったけどお金を使わなくて済む世界が、技ある人には自由な天国なんだな。朝から晩まで働きお金にはならないけど生きるための営みだ。
著者が長い時間をかけて関係を築き、徐々に理解しながら発見して気がついた話が盛り込まれた優れたノンフィクションです。
今はホハレ峠は足で越える人は絶えて久しいよう。渓谷登山愛好家として、ホハレ峠越えて門入を訪ねてみたい。病気の子供を背負ったり、60キロの栃の板を背負ったりして人々が越えた峠だ。
西谷渓谷沿いではなくて峠を越えて坂内川上の方が近かったっていうのが、車社会以前らしくていいですね。地形図では半ギレの後付け車道があるようだけどこれではなくて、足で登る道を嗅ぎ当てたいものですね。
表紙の写真はすごいですが、ゆきえさんの若い頃の写真にもうなりましたね。水になった村も探してみますよ。
浅又川最終堰堤の東側にデブリの流れた涸れた沢がありますが、それを詰めるとホハレ地蔵です。「栃板三枚背負って」歩いた道だから、沢ではなくジグザグに登ったと思いますが、そんなものは、もうどこにもありません。地図にある林道は王子製紙が門入までトラックを通すために造りましたが、それもコビクラ(門入側の黒谷枝沢。私の大好きな滝がある)の下流に微かな痕跡が残されているだけです。
「ホハレ」と言う不思議な名に惹かれて数十回訪れましたが、良いところです。ぜひ雪のころ歩いてみて下さい。但し、熊に遭遇する確率は奥美濃一だと思います。
記録をいくつか見てみたら、地形図のホハレ峠814の北東500mくらいのコルが、車で行けるところなんですね。こういう本を読んだ後だと栃板三枚とか、14歳でお蚕30キロとか、腹痛の子供を背負って一夜で越えた、とか見える風景も変わろうというものです。
2〜3年前にmacchanも、ホハレを起点にコビクラから蕎麦粒山に登っていますョ。当時、ホハレの情報を私に求めてきたことがありました。
まっちゃんのがおろさんとのコビクラ読みましたよ。20年前に大谷川から東面直登沢をまっちゃんと一緒に登ったんですよ。そのときは、門入のことも知らなかった。週末二日じゃなくて、三日四日持って、のんびりさまよいたい山域ですね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する