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神坂峠を越える東山道が古代ヤマトタケル東征以来の信濃入国メインルートだったのが12世紀頃から木曽を通る中山道に移っていったのは何故か、以前から考えていたのだが、恵那山麓の森林資源の使い切りで、豊富な木曽路へとルートが変わった可能性を読み取った。特に15世紀以降の戦国期は、大都市の建設や巨大城郭建築のための材木供給で木曽地域の奥の方まで運搬技術が発展した。恵那山麓の湯船沢や中津川の一帯は、それ以前の時期に真っ先に天然巨木林を失ったのだろう。
信濃帰還を望んでの名古屋在住3年となり、どうしても山ベクトルは信濃美濃三河国境になる。今年の秋は三国境の三国山を、矢作川からの山越えで。天竜川から茶臼山までの県境稜線歩きなどをした。恵那山の南の中津川源流域を超えて大川入山への国越え沢ルートも魅力的だ。神坂峠から男ダル山への稜線はヤブ尾根ながら、馬籠峠に下るラインが美しいなどと計画した。この地域の谷あいの村々の中馬街道や木地師の変遷の話もある。
明治までは長く廃れていた神坂峠の道が園原の熊谷直一によって駄馬が通える道として再興されたと初めて知る。その後、熊谷吉次郎による峠小屋からの恵那山登山道開削の働き、峠には古代の遺跡が数多く見つかったこと、信濃側の阿智との行き来で近代を支えた蚕の保管に風穴を使ったこと、山麓途上の古代遺跡は中央自動車道の工事で失われたこと。南面黒井沢流域の木地師や研究家、三宅武夫氏の山窩に関する話。
奥地の黒井沢も昭和30年代にはバスが通うキャンプ場やスキー場まであったが滅びた。その頃安藤卓造氏の黒井沢登山道が開かれたいきさつもある。日本の山の歴史では大正期と昭和30年代に、観光ブームがあって激変が多い。近代化の変革を受けた影響は今の山姿に大きくつながっている。日本に、無垢の山はないのだ。その慌ただしい開発のさなか1960年に深田久弥の百名山取材山行のあった経緯もあり興味深い。
1969年にできた中津川労山の歴史にも触れいて、今の山頂小屋は1987年の山頂小屋建設を労山メンバーが通って建てた経緯を知る。以前文通していた松葉桂二氏の名もあった。また長年、中津川といえばフォークジャンボリーが記憶にあったが、その何たるかも初めて読んだ。
恵那山を巡る地域史集成で、このような本は恵那山の愛好家にとっても、山麓住人にとっても宝だと思う。残念ながら絶版で圖書館でしか読めないかも。名山にはどこにもこんな総合的な地域史の本があってほしい。
恵那山と生きる
永井豪(ながい・たけし)
岐阜新聞社1991
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