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30kgくらいのパンパンのザックと裸のスキーストックを束ねたものを椅子に寄せて床に置き、私は列車の中で降りる駅を待っていた。列車は板張り、コールタール塗り。網棚は網の、博物館にあるような車両だ、ガタキシ揺れる。後ろのドアは走行中でも客が自由に開けられるようだった。いつもと違ってもう一つ、列車を降りたらパッキングし直すつもりで余計な荷物を持っていた。
降りる駅が近くなって早めに席を立ち出口の近くに行くと、山岳部で2年上、地球物理専攻、低温研究所の野村さんがいた。昔と同じで、ダケカンバか秀岳荘のダサい赤ヤッケだ。すごく懐かしい。ちょっと前かがみでキョロキョロした目とあった。「ぉおぅ、ヨネヤマかぁ」って言った。スキーを見せてもらったら水色で無地。伸び縮みするのが凄い。でもビンディングは昔のアメリカのおもちゃみたいにチャチで三日目くらいに壊れんじゃねえか?って感じだった。
停車駅について野村さんが降り、私は荷物のまとめでモタついていたらドアが閉まってしまった。レトロ車両なので手で開けられるかとなめてたら駄目だ。ガラスの向こうには宮井さんもいた。山岳部の3年上で、やっぱりダケカンバの紺と赤のヤッケを着ている。いつもの薄いサングラスで目元はよく見えないけど、なんだか口元が笑っているみたいに見える。ウールの軍手をしている。なんで宮井さんいたんだろ。
困ったなーと思ったけど、列車は止まってくれないものだ。次の駅で降りて歩いて戻らなきゃ、と思いながら車内を見ると、東南アジア人の若い姉さん二人組が毛糸の帽子を被って話しているお客がいるくらいだ。次の駅はえーと、「忍路(おしょろ)だ」。函館本線だったんだ。
次の駅では停車と同時に降りる。プラットフォームは車両より1mは低い。満州の果てにあったような昔の駅だ。でも降りて見てびっくり、雪がないよ。今頃気づくなよ、と思うかもしれないが、夢だから。周りは一面笹薮だ。途方に暮れてシートラして、トボトボと前の駅方向に歩き出す。「忍路の沖の真白帆に~」という寮歌を思いながら歩く。
朝のアラーム。
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起きてから
●1980年代の学生は列車で入山するのが普通だったが、今は皆無。野村さんとはその後実際に下山の列車の中でばったり会ったことがある。2012年3月。白神山地の4日山行を終えて下山した帰りの奥羽本線のどこかの駅のホームで、一つ向こうの車両に大ザックとスキーを持って乗り込む人の姿が見えて、あまりに懐かしいのでどんな人か挨拶したくなって行ってみたら野村さんだった。おかしいやら懐かしいやら。25年経ってもどちらも同じような姿で。その時は問寒別(といかんべつ)の演習林にいるといっていた。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-175649.html
●宮井さんは2007年2月に積丹(しゃこたん)岳を一人で登ったあと、帰りの運転中に心臓が止まって死んでしまった。車はゆっくり停まったみたい。余市(よいち)で先生をしていた。過労死だったと思う。
●地図を見たら、忍路という駅名は無かった。
寮歌は昭和8年恵迪寮寮歌「タンネのツララ」
https://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/keitekiryoka/ryoka/s08.txt
●ダケカンバは昔札幌にあった登山用品店
フォローさせてもらっているベルクハイルです。
なんか夏目漱石の「夢十夜」っぽい雰囲気の夢ですね。
私は最近、歳のせいか 夢をあまり見なくなりましたが(多分見ているのだろうけど、起きた時には覚えてないデス)、昼行灯のようにぼんやりとしている時には、昔の山仲間との山行を思い出したりします。
いずれにせよ、古き山の思い出はpriceless ですね〜
西暦で記して、引き算すると、結構時間経ってんじゃん!と、驚くこと多く、過去に老人がそう言って驚いていたことまで思い出しますね。
昼行燈タイム、いいですよね〜。
ウチの90歳のオヤジも、昼間ボーっと何か思い出しているのでしょう。
老境はなってみて初めてわかります。
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