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この山から松本の寿、白瀬淵に流れる牛伏川は、江戸時代から土石流災害の絶えない沢で、明治時代に、フランス人技師を招いて階段工という石積の谷を作って土砂流出を止めた。遺構として今もあり、登山道沿いにずっと見ながら登る。
昨日、月イチの図書館でたまたま目についた本がその信濃の土石流災害史を古文書などの文献ベースで洗い出す本で、非常に面白かった。著者は信濃の戦国史や地域の民衆史などの古典、古文書研究で知られる笹本正治氏(元県立博物館長)だった。戦国武士モノの本ではすでにかなり読んでいる人だけど、災害の歴史もこんな本にまとめていたんだ。
土石流災害は赤い牛、犀、龍が山を下るイメージとして地名に残る。水の神でもある。龍の子太郎の泉小太郎の出身は鉢伏山の山麓の泉集落である。牛伏寺の名も、犀川の名も、全て荒ぶる土砂災害から来ている。こう話すと短いし、証拠でもあるのかと思うかもしれないが、目が回る量の文献から一つ一つ拾い出して、紹介している地道な本で、これを読むと納得する。人の伝承や地名や地形には、納得の行く理由があると。
あまりに暴れ川だった牛伏川なので、田川(塩尻峠からくる川)との合流点付近やそれを越えた延長線上は近代まで人家は建たず。その広大な空き地が南松本駅の操車場になったのだと地形図をみて推測した。近代の広大敷地施設は、都市周縁のこういう「やばい空き地」にできる。人が住んでいなかったから。牛伏寺という古刹がなぜあの位置にあるのか。わざわざ川を鎮めるために移動したという。
なぜそんなに荒れてしまったのか?地質が脆かったせいもあるが、薪として木を刈り、城下町もおそらく天守もその材として刈ったせいだろうと思う。幕末から明治期の土石流災害の頻度が凄く多い。書き留めてあるのだ。
山の歴史は面白い。もっとも身近な山で最も古くから付き合った山なのに新しい事を知る。
もう一冊借りた日本語の語源辞典も面白い。これも古典文献を参照して日常語の語源を解説する辞典。「鉢」の語源は梵語でpatra、托鉢の鉢から日本語になった。マジか!
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-7847566.html
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-21485.html
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-21145.html
あんなに小さい川なのになぜそんな大工事を?なぜ信濃川河口まで困るほどの影響を?という思いがまだ尽きないです。
たまたまですが、ロケ(1月下旬とのこと)と放送の間に登ったようです。二ツ山までのトレースはロケ時のものだったみたいです。少雪山域なので残っていたよ。山は山麓込み歴史込みだと3倍楽しめるね。本当はウチからスキー担いで半日歩くべきだったか。
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