台風30号で大被害のレイテ島の名を聞くと、もちろんレイテ戦を思い出します。
米軍が本腰入れてフィリピン奪還のため上陸したところです。タクロバン、リモン、オルモック。大岡昇平のレイテ戦記。昨年から甲府に住んでいるので、甲府49連隊がレイテでほぼ全滅した縁もあり、読んでいました。1944年のちょうどいまぐらいの季節で10月下旬に米軍上陸、11月いっぱい戦闘で、補給無く山中をさ迷い日本兵8万人が戦死餓死病死で亡くなりました。もちろんたくさんのフィリピン人も、米兵も。
きっと近い親戚でたくさんの若い戦死者がいたと思うのですが、2代あとだと、もう先祖がどこで果てたのか知らない人も多いです。お年寄りは耳が遠くて話すのに根気が要りますが、聞けば話してくれます。普段みなあまり聞いてくれないのでしょう。
野山など登っているとき、鉄砲や大砲弾薬を徒歩で運んで山道を歩いた兵隊の事など、ときどき思い浮かべます。
こんばんわ。私の祖父も軍艦が沈没して戦死しましたので、写真でしか見たことがありません。
多分、父が二歳くらいの時だと思います。
あまりよくわからないのですが祖父は徴兵された兵隊でなく、職業が軍人だったようです。映画などで大和の最後のシーンとか見ると、祖父の最後はどうだったのだろうか?とか、お墓に骨がないので、南の島の洞窟で生きているかもしれないとか、少し前まで思っていました。父も元海外航路の船員なので、私が海が好きなのも、祖父の血かしら?と思います。
ああ、この手の話題になると必ずコメントしてしまいます。
レイテと言えば、ついに空母瑞鶴が沈没してしまったレイテ沖海戦が真っ先に思い浮かびます。
武蔵も山城も扶桑も沈みました。
ここに連合艦隊は壊滅し、海軍は特攻への道をたどったわけですが・・
もうちょとなんとかならんかったもんか!
とも思いますが、兵隊さんが命をかけて国を守ってくれたので、今の日本国があると思っております。
お客様の家に訪問し、仏壇に軍人さんの遺影があると、必ず手を合わせてしまいます。
まろくみさん
おとうさんも2歳じゃ、ろくに聞いてないのでしょうね。でも今からでも、まだ追跡調査はできるのですよ。もしも知りたければですけれど。証人は時とともに減りますね。
DSAさん
兵隊さんも気の毒でしたけど、その家族も、巻き添えになったフィリピンの人もみんな気の毒でしたね。
ぼくもこどものときは軍艦の名前から戦記を憶えましたけど、いまは、住んでいる町のお年寄りとか知り合いの親戚の誰それの弟が、とかそういう経路で戦死者の生涯や最後の一日を追想しています。勇ましい話は全然ないですね。
yoneyamaさん、こんばんは。
私もレイテと言って思い出すのは戦争のことです。
父方の祖父の弟がレイテで没してます。位牌の戒名から、
あだ名をつけて、昔に亡くなって知らない人同然なのに、
親しみ持って位牌に話しかけたりお墓参りしています。
父方の祖父も戦地に行っていましたが、
補給部隊だったそうでフィリピン現地の方が、
水や果物を親切にくださったことを話してくれました。
去年夏、祖父の末弟の奥様の初盆にお参りしたところ、
軍服の切れ長の目の美男子の写真が出てきて、
誰だろう?その亡くなった弟かな?と話していたら、
若かりし頃の祖父の写真でした。
母方の祖父は家族で満州開拓団として移り住み、
現地で曽祖父とともに徴兵されて、
シベリアに抑留となりました。祖父は戻りましたが、
曽祖父は帰りませんでした。
祖父が満州から帰れない地元の人を返すために、
いろんな方に寄付をお願いして歩いたことを、
7回忌の時に菩提寺の住職さんから聞いて知りました。
戦争の歴史を追うと身内の歴史も追えるのですね。
こんにちは。
レイテにはカンキポット山という山があり、日本兵は「歓喜峰」と呼んで最後の拠り所として戦いましたが、司令官から一兵卒まで多くが食うに食無く、撃つに弾無く、癒すに薬無い状況下、悲惨な結果となったことには心が痛みます。
しかし、かつて日本兵は比島人の敵となってしまいましたが、今回は自衛隊が友人として比島に赴くということで感慨深いものがあります。
私は幼少時にフィリピンに住んでいたのですが、その頃、大岡昇平が「レイテ戦記」の取材にやってきた、というような話を親から聞いた記憶があります。
私はレイテ島には行ったことはありませんが、コレヒドール島の戦跡を訪れたことはよく覚えています。また、家からマニラへ行く途中のいつも通る場所に、山下奉文大将が絞首刑に処せられた処刑場があったことも。終戦から20年足らずのその頃は、戦争がまだ、そんなに遠い記憶にはなっていなかったのだなと、今にして思います。
もっとも、幼い私には、そんなことは全然理解できていませんでしたが。当時のフィリピンで対日感情が悪かったことも、ずいぶん後になって知りました。
ミニ坂さん
先祖の歴史を詳しくご存知ですね。あれだけの大戦争だったのだから、ほとんどの日本人には辛酸を嘗めた先祖の歴史があるはずです。その頃の彼等の年齢を考えてみると、凄く若くて、自分の知っている老人の姿ではないことに改めて驚きます。
Народникиさん
甲府49連隊の記録本を読んでいて、カンキポット峰脇のリモン峠で激戦になったくだりがありました。人の土地で撃ち合いなんかするものではないですね。日本も米国も、フィリピンでは要らぬ客でした。困った時に助けるのが本当の友達ですよね。
ケンさん
帰国子女でしたね。20年、今から20年前なんて、大人にとってはつい最近ですよね。でも大岡昇平も書く気になるまで20年かかったと思います。そのころは東京の上野駅にはまだ、白衣の傷痍軍人が路上にいました。
東南アジア各国の中でもフィリピンだけがもとアメリカ領で、取り返しに来たときの戦闘が凄まじく、それでなおさら気の毒なことになったようですね。
yoneyamaさん、こんばんは、
レイテ島ではないけれど、私の住んでいる墨田区は、
東京大空襲で、多くの方が亡くなりました。私も主人
の両親も墨田の出身ではないので、その様子は聞けませんが、娘が小学生の時に一冊のノートがまわってきて、
娘の同級生のご祖母の方々の東京大空襲の生々しい
体験談が書かれていました。
このあたりもスカイツリーができて、変わってきていま
すが、そういった戦争の悲惨さも語り継いでいかなくては、いけませんね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する