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廃道になっていた村山登山道を歩いて探訪した畠掘操八さんと先日、やはり廃道久しい船津口道を探しに行く機会があって、そのときお話を伺い、認識がまた新しくなりました。
世界遺産などと騒がれても、17世紀以前の修験道時代の道や史跡など基礎的な研究は手つかずで、これらの道が廃れた過程も、まだ明らかにされていません。それは永遠にわからないのではなく、古民家の天井裏にある資料など、まだ読まれていないものもあるし、見つかったものでも全部読まれているわけではないと。興味を持って読まなければ書いてあっても見落とします。船津道を利用して戦前作られたバス道(スバルライン開通で廃道)や、一時フジヤマブームの進駐軍がブルで作った区間もあるとか。そういうことがちゃんと書いてある戦前からある地方新聞のマイクロフィルムをすべて目を通すような事も畠掘さんはされています。
本を読んでもわからない事は、自分で調べるものなんだと、そういうことを学ぶのが本当の学校教育なんだと改めて思います。知られていないことはいくらでもあって、パソコンやネットをカチャカチャやっただけで満足してはいけませんねえ!
じつは現代でも修験道者はいるのです。修験道というのは役行者(えんのぎょうじゃ)が7世紀に始めた山岳修行をする密教で、仏教(インド)の神様や、胡麻焚きなど、拝火教(ペルシャ)の要素も入った山岳信仰です。日本登山史の最も長い期間を占めています。富士山の修験道は明治維新で大打撃を受けたあとも細々続いたけれど、太平洋戦争で男がみな兵隊に取られて、それで絶えたようだということです。
山伏にしてみれば富士講というのは「最近のやつらは素人ばっかりだ、団体登山はお断りだ」というような対立があり、新興勢力が江戸から近い吉田経由の吉田ルートを選び、そちらが栄えて船津道は滅びていったのではないかと思われます。
yoneyamaさん、こんにちは。
先日、初めて村山浅間神社に立ち寄り、そばの標識(富士宮市教育委員会)に、富士山を対象にした修験の道は、平安時代末期からとあり、本当にびっくりしました。
また、時代はだいぶ新しくなりますが、富士山が世界遺産登録される前、地元のニュースで、江戸時代の富士講の際の「登頂証明書」や、当時の富士講の人たちに宿や食事を提供したお宅の食器等が、地元の旧家から見つかったという話題もあったように思います。
いずれにしてもだいぶ昔の話で、当然のことながら当時を知る人はおりませんし、偶然見つかってもその価値をわかる人は多くはないでしょうが、富士山が世界文化遺産となったことで、古の山岳信仰に関する資料や話題が取り上げられる機会が増え、国内のみならずその分野の専門家の方達が、忘れ去られていた先達の歩みや思いを明らかにしてくだされば、と思います。
村山古道は、ぜひ歩いてみたい道です。
りかろんさん
「その分野の専門家」というのはどこかにいるのではなくて、誰でも始められる事なんだな、と思いました。
村山古道、まずは歩いてみるとまた探究心がわきおこるでしょうね。探検とは、体を使って知的に楽しむ事なんですね(@チェリー・ガラード)。
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