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著者は中学3年で敗戦を迎えた世代の、近代史の研究家で評論家です。
当時著名人でさえも、真珠湾開戦の日に、ようやく我慢の甲斐があった、と溜飲を下げる日記を書いています。その時代の雰囲気というのは、本当に丹念に調べてみなければわからないものだと思いました。今から見れば愚かな戦争、何故「やるしかない」という国民的雰囲気になったのか。今だって日本人が前より賢くなったわけじゃない。人間社会はいつでもああなる可能性があるのだと、思います。
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敗戦の年、16歳で満洲から引き揚げて来た母(85歳在松本)が、14歳だった叔母(83歳)が今住んでいる東京立川近くの家を10数年ぶりに訪ねるというので、僕(在甲府)も出かけました。満洲から持って来た昔の家族写真を皆で見ました。満鉄の駅舎建築の仕事だった母の父と昭和18年の家族写真です。このハルピンの満鉄社宅、13年前に母と訪ねました。その時も半藤氏の「ノモンハンの夏」や「ソ連が満洲に侵攻した夏」読みました。
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立川駅の北側に新しく広大な官庁街があって、不思議に思って1977年からこの辺(武蔵村山)に住んでいる叔母の息子(いとこ)に聞いたら、最近までこの辺はなにも無かったと。
調べて見たらここは元陸軍の飛行機工場跡で、空襲をうけ壊滅後米軍に接収され、その後国有地で長く放置され、本当に最近再開発になったのだとか。いとこは防空壕跡が残っていた話もしていました。人口の多い多摩なのにそんなことがあるのだなあ、と立川飛行場について一通り調べてしまいました。山岳部知人の多い国立極地研究所もここにあるんじゃないですか。砂川という交差点があり、もしやとは思いましたが、砂川闘争の所だったのですね。学生寮時代の読書で戦後の反体制運動史をなんとなく知っていたのですが、土地勘など無かったので、今頃繋がりました。
多摩の歴史もおもしろいなあ。
私が15歳前後の事ですが、あの戦争の事で大人の人が論争していました、あの戦争は正しいと言っていた人の理由は東南アジアでの石油を他国から封鎖されて石油が入ってこないと日本は立ち行かないので石油確保のための戦だから正しいということでした、
現在も最近同じようなに石油が入ってこないと日本の経済が立ち行かないからと言う言葉を聞きましたが、
砂川闘争や安保など当時の民衆は良いか悪いかは別にして凄かったです、半藤一利氏の本は読んでいませんがテレビなどで出て色々当時の事を解説しているのを聞いていますよ、
ないでんさん
戦争が正しいと言っていた人がいたのはよく知っています。正しいもなにもあれだけたくさんの人を不幸にする以外の方法はいくらでもあったのがよく資料を読めば分かります。国の先頭に立つ人がそんなことで熱狂してはいけない、と思いました。
こんばんわ。
今日、祖母の法事に行き、20数年ぶりにおじさんに会って、父に聞いたり調べてもわからなかった祖父の戦死した場所や船の名前、当時の話し聞けました。
若い時は駆逐艦朝霧にエンジニアとして乗り、40才で戦死する前は呉で損傷してもどってきた戦艦の修理をしていたようです。最後は間宮に乗り、ユーボートシーライオンの魚雷で艦は沈没しましたが、一昼夜泳いで掃海艇に救助されサイゴンで正月を迎え、翌1月9日に香椎に便乗させてもらい出航、沿岸航法で夜中に進んでいましたが米空軍の爆撃にて戦死したと、生き残りの戦友から聞いたそうです。
朝霧、間宮、香椎ネットで調べたらすぐにどんな装備の戦艦か一発でてくるのに、キーワードを教えてくれるおじさんがいたおかげです。
祖母の弟が隠岐の島で唯一の陸軍士官学校から近衛兵になったのもしりました。選考基準に男前が入ってるらしく、初めて写真でみる大おじさんは、祖父、祖母みんな美形家族だったんだとびっくり。
祖父のルビーのついた勲章、戦死の知らせが来た日の祖母の様子、涙無しには聞けない話しでした。
母方は最近まで長生きし、病院で亡くなっていましたので、知らなかった父方の祖父の死に様を確認できて嬉しかったのと、戦死したベトナムと間宮の慰霊碑のある呉に行こうと誓いました。
まろさん
生き証人にお話聞けてよかったですね。軍艦の名前が分かれば、詳しいいきさつも分かりますね。何度も助かったのに。件の本に寄れば陸軍の戦死者のうち弾に当たっての戦死はごくわずかでほとんどが艦上での被弾で溺死18万人だそうです。陸の上では餓死がほとんどだそうです。
そんなことは当時の前線の一兵には勿論分からず、今資料を当たって分かる事なんですね。知っていれば戦争なんか始めませんわ。
ベトナム、呉、今ならいつでも行けますね。近衛兵なのに前線に行ったんですね。
おはようございます。
そうなんです。
あと、七ヶ月生きてほしかった。
しかも、40才にもなるとは当時、戦艦にのらず、呉で修理してたのに、間宮の艦長から、乗組員の親が危篤で親の死目にあわせたいからと、頼まれて家族と休暇中の祖父は代わりにのりました。終戦の一年前から負けるのはわかっていたから、呉に家族を残したらあぶないと、祖母、子供達を満員電車の窓から乗せ、駅で見送り、白い手袋をして敬礼したのが最後の姿です
父は小さく覚えてません、この話しは当時お腹にいた父の弟が生き残りの間宮の乗組員や祖母から聞いてまとめてます、
祖父は海軍で、祖母の弟が陸軍の近衛兵でした、
弟は詳しくきかなかったけど、隠岐の島に帰り長生きしてたと思います。祖父以外は祖母も子供五人も長生きしてます。
せっかく聞けた先祖の歴史ですから、忘れないうちに確かなことは書き残しておいたほうがいいですよ。年月日と場所も。いつかだれも知らないときが来てしまいますよ。
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