二つの町に軍があったのは1907年から45年までのたった40年たらずですが、当時人口数万の地方都市に、2~3000人の成人男子が集まって飲み食い営みするので、経済効果や地域の活性化などを狙って盛んな誘致合戦をする様が資料からわかりました。
いろんな町に住んだのですが、やはり連隊衛戍地(駐屯地)や旧制高校のあった町というのは若者が町を活気付け、華やかにする気がします。平成時代に大学を山の上や郊外に持っていったような町は、駅前がさびれていました。町の歴史という観点から歩兵連隊衛戍地に興味を持ちました。
【地域の中の軍隊3・中部】
吉川弘文館/2014
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n9913.html
は東海(豊橋、名古屋、浜松)、北陸(金沢、高田、敦賀)、内陸(松本、甲府)について書いています。僕の場合は土地勘のある松本、甲府、名古屋に注目して読みました。
日露戦争後、陸軍は大いに軍拡して、師団数を倍にした1907年に、両連隊は新設されました。国鉄中央線開通と同時代です。変革の時代だったでしょう。その後の1920年代、第一次大戦後に欧州中心に軍縮時代があり、このとき、両連隊の存続をかけて市議会や市の有力者が陳情の文書をたくさん残しているのですが、連帯の必要な理由あれこれの一つに、軍の規律厳粛の気風を県民に示し、思想善導上の役割が高いことが挙げられています。
内乱の防止の役割も挙げられています。、その細部が、甲府の場合、「山梨は古来より『一揆徒党ノ弊風』があり、大小切騒動(1872)、甲府市における米騒動」などの経験をあげているのに対して、松本の方は「県民は『理知ニ富ミ』、思想上、常に『時代ノ先端ヲ走リ』、ともすれば『赤化左傾』の恐れがある。」と、軍を撤退させないでくれ、という理由に県民性の違いを見せていて、両方を知る者として一人笑いしてしまいました。よく言われます。山梨は努力家で利害に際し断固とした態度をとることがある。信州人は理屈好きで、理想屋であると。
両都市の戦前の地図を見ると、連隊から駅に向かう通りには朝日とか曙とか旭という地名や商店街があります。そのころ、軍御用達の商店や、面会家族の泊まる民宿や、食堂などがあったのでしょう。出征、凱旋、葬儀などの隊列が歩いたのでしょう。連隊跡地は新制大学や付属小中学校になっています。練兵場、射撃場の跡地は運動公園や市営団地です。どちらの街でも近くに住んでいたので思い当たる名残があります。旭に関係する地名は軍の旭日旗が由来でしょう。もう誰も思い出さないけれど。僕の通った旭町小学校も旭町中学校も、連隊の近くでした。名前の由来、これまで全く思い当たりませんでした。戦前地図では曙橋の対岸の松電停車場名は「連隊前」とありました。
でも連隊に兵隊がいたのは1920年代までで、1931満州事変以降は満州、その後は南洋へと兵が送られ、ほとんど空っぽだったのでしょうか。何かを作り出す仕事をするでもなく、ひたすら破壊と戦闘のために青年男子が訓練して、ほとんど南の島で全滅か餓死。帰って来なかった。そのいきさつは
【山梨のアジア太平洋戦争】
佐藤弘/山梨ふるさと文庫2005
先週、山梨交通百貨店の催事場で年一回の古本市で買いました。著者は県立高校教諭。日清戦争以来の戦没者の死地、満州移民、国民義勇隊、学徒隊、徴用工、空襲疎開まで、厚くない本に具体的数字もあげ、良くまとめてありました。軍の資料は戦中は機密、敗戦時にほとんど焼却ですから、地道な調査の賜物です。
【戦記甲府連隊 山梨・神奈川出身将兵の記録】
樋貝義治 サンケイ新聞社 1964
まだ敗戦20年のころ、生還者多数の時代に大勢に話を聞いて書いた新聞連載のまとめ。厚い本で、まだ全部読んでませんが、今となっては貴重な第一次情報の証言記録と思われます。さきの古本市にあったので、購入しました。復刊版のまえがきは当時の防衛長官金丸信さんでした。
同じように松本連隊にも
【松本連隊の最後】
山本茂実 角川文庫1978
がありました。山本氏は松本の出身で「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」や先日どなたかが書いてらした「喜作新道」を書いた、ノンフィクションライターです。こちらも生き残りの人に多数取材して書いたものとのことでした。
私の知識では、たしか連隊は現在の「国立甲府病院」のところにあったとか。でもその周辺には大学やスポーツ公園がありますから、そういう大きな敷地は連隊の名残りかもしれませんね。
WIKIPEDIAを見ると
「経済的効果や徴募された兵の便宜を期待した甲府市では兵営誘致を陸軍省に上申していたが、甲州財閥の若尾家が西山梨郡相川村の土地を提供し、1908年(明治41年)10月に兵営の建設が開始され・・・」とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC49%E9%80%A3%E9%9A%8A
あれこれの理由付けは後付けで、本当のところはやはり軍隊が駐留していることでの経済効果を期待してのことだったのでしょうね。いまの沖縄に重なります。
甲府の「朝日町」が「旭日旗」からとは想像しませんでしたが、言われてみれば、ですね。
WIKIPEDIAには「1944年(昭和19年)11月 - レイテ島で、大部分が壊滅。」とあります。
平和であれば未来を開き世の中を発展させる能力のある若者達が、まさに「何かを作り出す仕事をするでもなく、ひたすら破壊と戦闘のために訓練して、ほとんど南の島で全滅。」とは・・・。
こういう末路を経験した日本だからこそ、いま世界のために貢献できることがあるはずだと思います。
日記離れした話におつきあいありがとうございます。
国立甲府病院の敷地は、変わらず衛戍病院(陸軍病院)そのままです。だから国立なんですね。連隊の敷地はその北西の大きな四角形、北新小、山梨大付属小、付属中、それに市営団地です。この四角形だけ東西南北に対し45度傾いていますね。ここが若尾財閥が寄付した土地だそうです。ここから相川の橋を渡って、現在緑が丘公園の射撃場、練兵場に通ったそうです。
49連隊はレイテ島のリモン峠という有名な激戦地で全滅したそうです。近所の神社にこの町内一帯出身者の名を刻んだ忠魂碑があります。もうお参りする人が誰もいなくてかわいそうです。
町を挙げて誘致をして経済効果を狙った戦前の内地の基地と、日本に「捨て駒」にされて焼け野原にされ、無理矢理作られた米軍基地で結果的に働かざるを得ない沖縄を一緒にするのはちょっと気の毒に思います。
侍、軍人の家系だと自分に関係ある先祖探しをしてると、必ず戦争のとこで名前がかわったり、住んでるとこが移動したりややこしいです。母方は源まで遡りました。
祖父は職業軍人だったから、気合い入れて調査しただけで死んだ場所まではんめい。呉で手にいれた非売品の大東亜戦争で沈没した全ての船の場所が書かれた海図をゆずっていただき父にみせたら、さすがにこみ上げてきたようです。海軍慰霊碑は、海上自衛隊のOBの方が、遺族がいつ来てもいいように綺麗に掃除してくれてました。私がいろいろ調査してるとゆうと喜んでいろいろ資料出してくれました。生き残りどころか遺族も高齢で訪れる人が少なくなってるからです。
このまま、国の為に死んだ若者のこと、戦争が忘れられていくようで寂しいと言われていました。
呉駅に電車到着同時にヤマトのテーマ曲が流れて涙が出ました。男達の大和で少し注目されてよかったです。大和だけで3000人以上戦死…みんな20代30代です。今の政治家に見に行って欲しいですね。
気の毒なのが私の叔父で軍属だったから、資料も少なく骨もない墓石しかありません。入学してるはずの大学や会社の履歴も戸籍も操作や削除されて、追跡調査ができません。陸軍の輸送船に乗ったはずですが、まるで、高校時代からの先の人生がなくCIAの映画みたい。大正時代に英語が話せたから、機密の仕事をしてたのかも?と妄想してますが、戦時中だから仕方ないとあきらめるか?諦めきれないので、まだまだ調査続けます。
おやじさんをぐっとこさせてよかったですね。
呉まででかけたんですか。軍属だとそんなに違うんですね。戦没者の数だって大ざっぱなもの。同時代の人は、生き残った人だって行き延びてしまった事が申し訳なく、簡単には語れなかったというし、墓場まで秘密を背負って行った人は数多いと思います。
ヤマトのテーマ曲って、宇宙戦艦じゃなくて、軍艦行進曲ですよね?
以前、姫路城の三の丸を歩いていて、「嗚呼38」と石碑がありまして、ピンときました。碑文には歩兵連隊のことが詳しく書かれていました。
明治の御一新の後、多くの城下町は地方都市になり、武士の去った場所に近代的な軍隊が置かれました。組織は違っていても、どこか前時代からの威風が残っていたのではないでしょうか。
原全教著の奥秩父を読むと、甲府の歩兵連隊の前を通り、和田峠を越えて金峰山を目指すところが出てきます。手前所持の古地図「御嶽昇仙峡」に連隊と練兵場が載っています。今の地図を見直すと、町割がそのままなのにはおどろきます。
姫路は、第十師団司令部まであった軍都ですね。件の中部編の本でも、名古屋第三師団、金沢第九師団など、維新の早い時期に鎮台が置かれたような大都市では、城の敷地がそのまま司令部になっているところが多いみたいです。松本や甲府は明治末だから、城ではなく、城下町外れの荒れ野原が多いみたいですね。名古屋城の本丸御殿は昨年、復元再建したそうですね。
原全教は和田峠経由でしたか。深田久弥は学生時代、甲府駅から湯村、山宮を歩いて昇仙峡で一泊、金峰山を目指してますね。うちの近くを通っているんですよ。戦前の「御嶽昇仙峡」持っているんですか。興味深いですね。いま宅地化しているところの、昔の姿など。このあたり、旧市街地はさびれているのが幸いして、町割りそのまんまです。
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