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指定地は、剣沢の源頭部にあり、さらに上方の別山乗越に立つ剣御前小舎までは、大きな雪渓が連なっています。
夏遅くに「貝」の形になって残雪がのこるこの雪渓は、「貝殻雪渓」と呼ばれて、年を越えて雪が残る万年雪の調査がおこなわれてきた場所です。
(写真1枚目、中央部の平坦な場所が、幕営場。写真の撮影地点からさらに上方に登ると、貝殻雪渓)
別山のとなり、真砂岳と富士ノ折立の間には、本物の万年雪、つまり氷河の名残りの「化石氷体」が残雪の下に眠る「内蔵ノ助カール」があります。(写真2枚めに位置を紹介)
深さ20メートルの雪氷の底近くから採集されたハイマツ片をもとに年代測定がおこなわれました。その結果は、約1700年前の氷と判定。卑弥呼が生きた時代より少し新しく、いればその孫(いない!)ぐらいの時期に降った雪が氷化したものとわかりました。
同じ調査がされた大雪・ヒサゴ沼(キャンプ指定地)の氷体は、せいぜい数十年前のものでした。
一番古い化石氷体は、大雪山系の十勝側、然別山地で見つかっており、年代は7000年以上前のものでした。こちらは地下の凍土の中の氷体で、地表のものではありません。
私は、1984年に初めて剣沢でキャンプ。(写真3枚目)
友人たちのサポートをうけて、1歳11ヶ月の長男を剱岳に担ぎ上げました。
2度目は、その長男が高校1年のときに御前小舎でアルバイトをしたときに、ここでキャンプしました。化石氷体の話は、そのときに、小舎に調査に来ていた院生らから聞きました。
http://trace.kinokoyama.net/nalps/tateyama98.htm
http://trace.kinokoyama.net/nalps/akito-gozenngoya99.htm
長男は、このとき山小屋アルバイトで知り合った小舎の縁者(同い年)と、9年後の去年に結婚。いま7ヶ月の息子がいます。彼は、自分の「剱岳最年少?登頂記録」を、その息子に破らせないと、いけません。
剣岳は私の一番のお気に入りの山です。その割には中々行けません。といっても剣沢には5回10泊以上してますが。室堂までの交通機関は高くて混むのが難点です。
10泊余りもしたんですか。ここは泊まる登山者も場慣れしている風のパーティーが多い所と感じました。岩と雪渓に囲まれた環境が、他にない雰囲気のところですね。
日の出前後の剱岳の姿が、すばらしいです。
この天場のそばに立つ剣沢小屋は、1930年1月に雪崩で倒壊し、6人の犠牲者が出ています。
この雪崩は、当時、大きなニュースになりましたが、その前日に単独行で知られる加藤文太郎が、剣沢で一行6人と出会っていたことから、登山史のうえでの有名なエピソードとして記録されています。
亡くなった6人の1人、田部正太郎は、遭難時点で26歳。田部重治の甥でした。
田部正太郎は、私の郷里の福島の吾妻連峰にたびたび訪れ、記録を残してきた人です。
この雪崩について、私のサイトのデータを紹介しておきます。
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この雪崩遭難について、「立山とガイドたち――秘められた近代登山記録」(北日本新聞社、1973年刊)が雪崩と小屋の図解をのせています。その図では、剣沢小屋が、ここの天場(慶応大学山岳部が名づけ親でしょうか? 三田平野営場、と呼ばれています)よりも、剣沢の源頭の沢より(剣御前の稜線より)にあったと記されています。
現在は、小屋は別山の尾根側、野営場よりも10メートルほど高い位置に移っていますが、当時は、沢際にあったことになります。いま、野営場の北端には、山岳警備隊の宿舎と、大学の夏季診療所の建物があります。そこは、カールモレーン状にやや高みになった場所ですが、たぶんそこか、さらにその一段下の位置に、昔の剣沢小屋があったのでしょう。
雪崩は、沢の対岸の剣御前の稜線下で発生し、斜面を落下して、谷を横切り、対岸の旧剣沢小屋を押しつぶしたとのことです。いままでは、別山の尾根か山頂方向(南)から、剣沢を滑り落ちてきた雪崩では? と思い込んでいたので、この図解にはびっくりしました。
田部正太郎ら6人をのみ込んだ大雪崩が、小屋側へ這い上がったその付近も幕営場が拡がっていて、私が最初に剣岳に登ったときは、その場所で幕営しました。
日の出の陽光に赤く染まる剣御前の山肌、雪田の光景が、美しい場所でした。
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