私が後方羊蹄山に登ったのは、本で、こんないきさつを知ったからでした。
私の山ノートの記録から。
「高校時代に読んだ深田久弥の『わが 愛する山々』では、周遊券をフルに使った家族三人の山旅の途上、後方羊蹄山に登る話が出てくる。この紀行では、列車の窓に入りきれないくらいの大きさで後方羊蹄山が迫ってくることや、登山口の比羅夫の 民家が夏でもストーブを焚いていたこと、などが印象深く描かれていた。」
本州から函館をへて札幌へは、室蘭本線を使って室蘭・苫小牧を経由するルートと、函館本線を使ってニセコ・小樽をまわるルートの2つがありますが、私が好んで使ったのはニセコまわりの函館本線。しかも昼にこの区間を走る急行列車(「宗谷」)でした。
谷筋、山際をうねうねと走る列車は、速度もゆっくりで、倶知安の手前の比羅布駅のあたりからは、本当に車窓に入りきれない大きさで、後方羊蹄山が大きな姿を現していました。
登ったのは夏の終わり。ニセコの山を下り、麓の半月湖の樹木の根元にテントなどをデポして、山肌に電光形に刻みこまれた登山道を上がりました。
http://trace.kinokoyama.net/hokkaido/niseko-siribesi74.8.htm
当時は百名山の喧騒が道内に持ち込まれるより10年以上も前のことで、人気があったこの山でも、平日のこの日の登山者は、私に先行していた日帰りの2人だけでした。
「八合めをすぎると、登りはいっそうきつくなった。灌木がまばらになってガレ場がまじってくると、そこが九合めだった。冷たいガスの中に、ぼんやりとした標識を見つけた。そこは山頂部の直下にある分岐点で、避難小屋への道が右に分かれていた。」
「・・・尾根らしい地形を二つ、三つと越えて、山頂部を西から南側にまわりこむように進むと、ガスの中に避難小屋が姿を見せた。しっかりした木造のつくりだ。」
「中に入ると、営林署の管理人さんが、ストーブにあたりながらラジオを聞いていた。午後3時45分、ちょうど気象通報の時間だったので、ザックの中身をどたばたと出して、天気図を書く。台風が2つあるが、まだ遠い。そして、低気圧をいくつかともなった前線が東北以南の列島を縦断していた。
夜は管理人と2人きりだった。彼は27〜28歳くらいか。無口な人だ。小さな発電機を動かして電灯とテレビをつけてみせて、ここには何でもそろっているんだから、と自慢していた。」
あのときの羊蹄避難小屋は、建てられて少なくとも10年前後は経過した風合いが感じられました。でも、2011年の小屋の存廃にかかわる検討会の場では「建築後38 年以上経過し、老朽化が進んでいる」とあります。私が1974年にお世話になった小屋は、実際には前年に建てられたばかりの小屋だったことになります。
これだけの長期間、羊蹄避難小屋が存続してこれた事情について、倶知安町は、環境省、道などとの「羊蹄山避難小屋整備基本計画検討会」の場でこう報告しています。
http://www.env.go.jp/park/shikotsu/data/youteizan.html
「協議会が継続して登山者の安全管理や小屋の維持管理を行ってきたことが、老朽化を軽減し、建替えなく維持されている大きな要因と考えている。」
大掛かりな補修については、道が担ってすすめてきています。
その維持管理ですが、私が利用した当時は営林署職員が管理に入っていました。
それがある時期からは、地元の登山者らが町や道と連携し、環境省などの了解も得ながら避難小屋の管理役を担ってきています。
現在、管理人として献身されている方のHPでは、肩書きが次のように表記されています。
「高校教諭退職後、羊蹄山山岳指導員(管理人)及び支笏洞爺国立公園自然保護監視員・ニセコ積丹小樽海岸国定公園自然公園指導員。」
「6月上旬から10月上旬にかけて小屋番として私 近藤が隔週で駐在しております。 避難小屋では協力費の負担をお願いしております。
宿泊・・・大人¥800・小学生以下¥400
休憩・・・大人¥300・小学生以下¥200
貸出・・・毛布1枚¥200・寝袋1つ¥300 」
この小屋は、山小屋としては立地も運営もなかなか厳しい条件にあります。
とくに、9合目にあるため、沢水、湧水がないため、雪渓が残る時期を除き水が得られず、屋根の雨水を、地下タンクに溜めてしのいでいる事情があります。
登山者には自分の分は全量を担いで上がることになります。
いまの問題は、老朽化にともなう建て替えです。
私は、本来は国、環境省が建て替えをすすめると想像したのですが、国の基準では単独峰には避難小屋は建てられないそうです。
そのため、国、道、町、協議会の検討・相談がすすめられ、管理人さんの日記では、主体は不明ですが、建て替えの方向が決まったとのことでした。
小屋の管理人さんは、こう書いています。
羊蹄小屋日記 雲上の独り言
http://www6.ocn.ne.jp/~jinriki/subA.html
「小屋番第5週 2012.08.12-08.19
避難小屋は名目上は避難する為の小屋であるが、登山者は事実上計画的に小屋へ泊まりに来る。これはこれで登山の安全の為の手段だからいい事だと思う。だから避難小屋という言葉は現実的じゃない。小屋の名前に関しては今後検討の必要性があると思う。
ともあれ、緊急事態として小屋に泊まる登山者も少なくない。」
「羊蹄山は環境省は「単独峰というカテゴリに入り避難小屋の必要性は無い」という認識だと以前説明を受けたことがある。」
「小屋番第2週 2012.07.01-07.08
真狩コース8合目で登山者が動けなくなっているという内容で、待機の指示もありましたが天候が回復に向かうという予報や、現場が小屋から近いということもあり、現場へ向かうことにしました。
現場には60代くらいのご夫婦のうち、男性が横たわっていました。そばに心配そうな奥さん。」
「14時30分、ようやくヘリで要救助者をピックアップ(道警のヘリではなかった。多分ハイパーレスキュー)しました。
気象条件が厳しくかなり危険なケースでしたが、警察や消防、役場など地域の方々の協力で要救助者は一命を取り留めました。安心しました。」
「この救助活動を振り返ると・・・11時30分から15時の間に出会った入山者は1名。当たり前のことですが悪天候故に入山者は殆どいない状況でした。避難小屋が無人であったら救助は遅れていたことでしょう。山小屋が有人であった為に、短時間での救助が可能となりました。また、ヘリで救助が不可能だった場合を考えると、避難小屋の存在は遭難事故に対応する為に不可欠であると思います。
老朽化した避難小屋の建て替えが決まって本当に良かったです。」
羊蹄避難小屋の現況と管理人さんの献身的な活動を知り、山小屋がその基本機能とともに存続し続けることの大変さを改めて考えさせられました。
ただの普通の避難小屋と、管理人さんがおられる小屋との違いも気づかされました。
小屋の建て替えが実際に動き出すとしても、協議会をつくって支える地元の方々と町には、これからも多くの労苦が重ねられることになると推測しています。
それにしても、管理人の近藤さんの、山男らしい稀有な活動には頭が下がります。
私は一度しか、北海道に行ってないのですが、ひと目でそれと分かる羊蹄山は、連絡船のつながりで乗った列車の車窓から寝ぼけ眼で写真を撮りました。ピンボケでしたが
アラゲンさん、函館本線は、噴火湾沿いでは太平洋を、そして長万部からはニセコの山々を抜け、余市からは日本海を目の前に眺める、というなかなかない路線です。
tanigawaさん
興味深い話です。今、企画進行中の北海道の山小屋についての本の参考にさせていただきます。
私は小学生のときに、ちょっと離れた場所にあった旧小屋に泊まったことがありますが、こちらの小屋は行ったことがありません。
後方羊蹄山は冬しか行ったことが無く、小屋の存在も知りませんでしたが、深田久弥の文章は覚えています。息子と奥様と、延々鉄道に乗って北海道へ行ったときの話ですよね。
僕自身も受験で初めて北海道に行った今頃の季節、雪の鉄道を延々進んで函館本線から見えた後方羊蹄山を忘れません。新しい人生を予言する大きな神様に見えました。
僕の高校はバンカラで、北大はじめ旧制高校の寮歌はほとんど歌えたので、瓔珞みがくの、「羊蹄山に雪潔し〜」も既に知っていました。
え、バンカラ?
あ〜○の応援団?○一匹○大将・・・etc
永遠の憧れだわ〜
kennさんは、きっと山頂にも小屋にも行ってる、と思ってたのですが、なんと先代の小屋に泊ってたんですね。
それで私の記憶とたどると、小屋跡かどうかは不明ですが、現在の小屋とは違う、小さなカール状のくぼ地に、資材か基礎工事跡か、なにかの跡があったように思います。
私は山頂部の下の踏み跡を周回したので。
それと耳にした情報ですが、真狩コースだったかに、小屋があったような記憶があります。
北海道の小屋は、このあいだの夕張ヒュッテもそうでしたが、有志のご貢献がなければ存続がむずかしい小屋が増えてきていますね。
yoneyamaさんは失礼ながら、見た目は南寮の応援団風な面がありますからね。ひげを1週間も剃らずにいると。
あっ、失礼しました。
私は、最初は下宿に入ったのですが、下宿さがしの間、南寮に借宿してました。そこは応援団の巣窟。
床は一面、紙やミカンの皮、その他が散らばって、床板が見えませんでした。夜中にネズミが暴れまわり、犬が廊下を走り、カラスや鳩も迷い込む。
70年代はそうでした。
19歳まで半月前の私は、たまらず退散しましたが、半年後に山の友達を慕って、入寮しました。
南寮は1階の14号室に入ったことがあります。
>僕の高校はバンカラで、北大はじめ旧制高校の寮歌はほとんど歌えたので、瓔珞みがくの、「羊蹄山に雪潔し〜」も既に知っていました。
高校生でですか。
漢字や国文の勉強にもなりますね。
深志高校からは入寮者が多いですね。
アラゲンさん、彼らは、教室でのいでたちと、円山球場でのよれよれの羽織袴姿と、180度の変わり身が身上。
あ、ひげは、そのままだけど。
けっこう普通の社会人になって出て行ってました。
中学の時だったか、恵迪寮の寮祭に(父と?)行って寮歌集をもらってきて、結構寮歌を憶えました。
先日、パラダイスヒュッテに泊まった際、管理人の山スキー部の60代OBが高校時代は合唱部だった方で、「歌を歌いましょう」と言われて、歌わされましたが、その中には山の歌に混じって、「藻岩の緑」「魔神の呪い」「津軽の滄海の」「タンネの氷柱」「春雨に濡る」「花繚乱の」などの恵迪寮寮歌もありました。
ちなみに「瓔珞みがく」は厳密には?寮歌ではなく予科の桜星会歌ということのようです。「愛奴(アイヌ)の姿薄れゆく」という箇所が、何というか印象的です。
kennさんといい、yoneyamaさんといい、早い時期に寮歌に親しんできたんですね。
yoneyamaさんは(たぶん)由緒ある木造の寮が鉄筋に変わった時期に過ごし、kennさんはは私より5歳若いですし、東京で学生時代をおくったんでしたね。
だから体験や環境はそれぞれ異なると思うのです。
それでも寮歌の世界に精神的なつながりを感じるのは、北海道の自然、大地、開拓と草創の時代の人の生き方と自分の生活と体験との間に、重なるものがあるからかも知れません。
とくに冬の山、明るい春、そして山小屋は、往時のままですね。
私は寮歌は半端にしか覚えず、あまり模範的な寮生ではなかったですが、それでも振り返るとあの時期は、鮮烈な思い出の時期です。
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