![]() |
難事故について多くの証言やデータをもとに専門家も参加して詳しい状
況を報告・分析しています。
(日本山岳ガイド協会 トムラウシ山遭難事故調査特別委員会の
「中間報告書」)
これまでの遭難事故報告書に比べて、この中間報告の一番の特徴
は、大量遭難事故の犠牲者の直接の死因を「低体温症」ととらえ、そ
の様相と、そこに至った原因を多角的に検証しようとしていること
です。
そこには、これまで認識されてこなかった「低体温症」の脅威と
進行の様子が、おそらく史上初めてのことと思いますが、多数の証
言で明らかにされています。
中間報告は、次のように書いています。
「今回の生還者も、「疲労凍死」という言葉については多くの人
が知っていたが、「低体温症」という言葉は、ほとんどの人が知ら
なかった。したがって、低体温症に関する正しい知識を啓蒙するこ
とは、今後の遭難防止にとって重要なことだろう。」
ガイド協としてはこの報告書の全文をWEB上に掲示していませ
んが、ぜひ全文を読めるようにし、多くの登山者に読んでほしい
と思っています。
なお、この問題では、私の事故翌日昼の次の日記のスレッド
も、比較検討していただくことを希望します。
「トムラウシ山遭難――低体温症とツアー登山、2つの問題」
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691
以下、中間報告から、この角度での要点をツリー形式で紹介し
ていきます。
まず、低体温症の今回の現れ、です。
報告書は次のように記述しています。
「北沼周辺で亡くなつた人の内2-3名は、北沼以前(ロックガーデ
ン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。ロックガー
デンを登り終え北沼に降りる時点で、ほかの人の力を借りなけ
ればならないような歩行状態は、すでに症状が進んでいたと推
定できた。発症は待機が始まった時間(北沼に到着した時間)の
10時30分にした。」
「北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行
動に移った瞬間から低体温症は急激かつ加速度的に進行し、症
状が悪化する。これは静止状態から運動状態に移つたことで、
冷たい血液が体内に一気に流れ出し、脳や筋肉の機能障害が急
速にきたためと思われる。インタビューした多くの人が、この
北沼分岐を出発したと同時に「意識が朦朧とした」「つまずい
て歩けなかった」と証言したことで証明できる。」
「北沼からトムラウシ分岐までの20分間という短い距離と時
間の間に、低体温症で次々に倒れていった事実に注目しなけれ
ばならない。
発症から死亡するまでの時間(推定)は、
2〜4時間以内:5名 、
6〜10時間半以内:3名
(6〜10時間半以内の死亡者の中には、テント内でビバーク
した2名を含む)
死亡者の半数以上が2〜4時間以内で亡くなっていることは、
低体温症が加速度的に進行、悪化したものと思われる。これ
は急性低体温症といえる。
低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるため
に全身的「震え」が35℃ 台で始まるのが特徴的であるが、今
回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行し
た例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が
抑制され、30℃ 以下に下がっていったと思われる。」
今回の低体温症は、北沼のずっと手前で症状が現われたこ
と、そして、続いて報告しますが、参加者の全体に大なり小
なり発症していたことが、一つの驚きでした。
(以下で、参加者への低体温症の現われを見ていきます。
写真は9月下旬のトムラウシ)
証言に入る前に、7月16日の遭難事故当日は、どういう気象条
件だったのかというデータを、事故調査「中間報告」から紹介しま
す。
○現地調査班のレポート
「16日の山の天候は気温6℃、風速20m/secだった。」(新得
警察署)
○気象担当者のレポート
「遭難日の7月16日について見てみると、15日に通過した低気圧
は、16日未明に宗谷海峡を東進した。この低気圧は閉塞化が進み、閉
塞前線が形成されているが、大雪山系では、当日未明から寒気ととも
に強い西風が吹きつける状況であった。
この低気圧はゆつくりと東進したため、大陸から吹き出す寒気も強
い状況が維持された。札幌の高層観測によると、16日9時の1900m付近
の気象は、気温が8.5℃ と急下降し、風速も19m/secを記録してい
る。また、風向は西北西に変化している。」
「大雪山・五色観測サイトにおける気象観測からの推測
大雪山の高山帯では、北海道大学大学院地球環境科学研究院GCOEが
無人気象観測装置を使って気温、風向風速、降水量などの気象観測を
行っている。・・・今回の遭難現場の気象を推測するのに適したデータ
であるといえる。
【気圧】0時から8時にかけて780hPa前後と低い値が続くが、8時以
降、上昇に転じた。気圧の変化から推測するとパーティが出発した5時
30分は、まだ悪天候のピークの真っただ中であったと思われる。
【気温】パーティが出発した5時30分の時点で7℃ であった。その後、
パーティが稜線に出た6時から14時頃にかけて6℃ 前後で推移し、14時
になるとさらに低下し始めた。17時30分に日最低気温3.8℃ を記録、17
時30分以降、気温は上昇に転じた。」
「【風速】パーティが出発した5時30分から21時頃にかけての平均風速は
15〜18m/secであった。このことからパーティ出発後、強風は夜中まで収
まらなかつたことが分かる。特にパーティが稜線に出た6時頃から14時頃
にかけて、最大風速が連続して20m/secを超えており、歩行困難に陥るほ
どの強い風が、持続的に吹いていたことが窺える。
【降水量】夜間の2時から3時にかけて、時間雨量が12mmに達するかなり強い
雨が降っていた。しかし、3時以降雨は弱まり、8時になると止んだ。
パーティが強い雨に打たれたのは、出発直後から8時までの2〜 3時間程度で
あったと推測される。」
「トムラウシ周辺の気象状況の推定
・・・主稜線に出てから8:30頃にロックガーデンを通過するまでの
間、風速20m/sec以上の強風が吹き荒れていたことが窺える。最大瞬間
風速は平均風速の1.5〜 2倍に達するといわれるので、この間の最大瞬
問風速は30〜 40m/secにも達したと考えられる。台風の暴風圏の中を
登山していたような状態である。
一方、この間の雨に関する証言はあまり多くない。出発時くらいま
では降水量が多かったが、その後は風が主体で、降水量は減少してい
たと考えられる。
10:00の北沼渡渉点でも強風が続いた。北沼が風で大きく波打ってい
て、これが水位上昇に関与したことも考えられる。12:00頃には、北沼
分岐や南沼キャンプ場で風も弱まり、雨も止んでいた。これから午後に
かけて天気は回復傾向にあった。
トムラウシ山南斜面の前トム平では、16:00頃雨も上がり風も弱まって
いた。そして19:00頃には、南沼キャンプ場付近でも月明かりが見える
ほど天気は回復して、晴れとなる。」
○運動生理学の分野からの検討レポート
「今回のトムラウシ山遭難の当日は、気温が終日10℃ 以下(最低で
は5〜 6℃ 程度)まで低下していることから、低体温症が起こる可能性
は十分にあったことになる。
以前は「低体温症」という用語が一般的ではなく、「疲労凍死」と
いう言葉が使われていた。「凍死」というと、環境温が0℃以下の時に
起とるというイメージを与えるが、そうではなく、低体温症は夏山で
も起こり得ることを知る必要がある。」
この遭難で亡くなられた方は8人です。(他に単独行の男性が1
人死亡)
亡くなられた地点ごとに分けて、同行して生還した参加者の証言
を掲示します。
(以下、参加者の略記号などは「中間報告」の通り。文の頭に※印
は、tanigawaによる注記)
≪北沼渡渉点 第一ビバーク地点≫ 2名死亡
◆女性客J(61歳)さん
※北沼渡渉点の手前から、ガイドCが肩を貸して支えられて登
高。
※北沼渡渉のあと、ガイドCは、ガイドBに、女性客Jさんの様
子がおかしいことを告げる。
「ガイドC(38歳)の呼び掛けに対する反応が薄く、体を動かそう
としない状況だった。」(ガイドB(32歳))
「直前の渡渉地点では典型的な前兆がなく、空身とはいえ自分で
歩いて渡っていたので、本当に驚いた。あまりにも急激だった。」
(ガイドB)
「スタッフ3人は懸命に女性客Jの体をさすったり、声を掛けて励
ましたり、暖かい紅茶も飲ませたりしたが、次第に意識が薄れて
いった。」(報告書)
◆リーダーA(61歳)
「リーダーAが『俺が看るから』と言うので、『それじゃ、お願い
します。私は本隊を追い掛けますので』と言って別れた。彼は男性
客D(69歳)が貸してくれたツェルトで女性客Jを包んでさすってあ
げていた。風が強いので、ツェルトを巻こうにも巻けない状態
だった。その頃の彼の表情は、どこか虚ろだったように思う」(ガ
イドC)
※翌朝4時。
「ガイドB(32歳)が第1ビバーク地点まで行く。リーダーA(61歳)は
うつ伏せで、雨具の上下を着たまま女性客」(61歳)と倒れていた。
ツェルトは風で飛ばされ、近くの岩に引っ掛かっていた。その場は
ツェル卜だけを回収して戻る。第2ビバーク地点からは、空身でわ
ずか5分ほどの距離だった。」(報告書)
※この「第一ビバーク地点」について、現地調査報告では、次の
ように記しています。
「川を渡った所は大きな石がゴロゴロした地帯で、風を防げるよ
うな所ではない。・・・強風に対して無防備でここに滞在したら、低
体温症になることは想像できただろう。・・・岩がゴロゴロした遮
蔽物が何もない場所で、プロのガイドがビバーク・サイトとして選
ぶ場所ではない。」
※このビバーク地点選定の判断をみても、パーティーが相当なショック
と混乱、判断不能の状態におちいり出していたことが推測されます。
そのことは、すぐその先の第二ビバーク地点で、はっきり現れてきま
す。
≪北沼分岐の先 第2ビバーク地点≫5人ビバーク、2名死亡
同行して生還した参加者の証言を、続けて掲示します。
(参加者の略記号などは「中間報告」の通り。文の頭に※印
は、tanigawaによる注記)
※ここは第1ビバーク地点から、通常なら5分のところで
す。頂上へ登らず、西面をトラバースするルート上。
「北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行
動に移った瞬間から低体温症は急激かつ加速度的に進行し、症
状が悪化する。・・・インタビューした多くの人が、この
北沼分岐を出発したと同時に「意識が朦朧とした」「つまずい
て歩けなかった」と証言したことで証明できる。」(報告書)
※症状が広がったうち、歩行不能の女性客N、女性客H、女性
客I(59歳)が、動けなくなり、男性客D(独自にビバークを判断?)、
ガイドBが付き添って5人がビバークします。
※女性客N、女性客Iが亡くなりました。
◇女性客H(生還)
※第2ビバーク地点では、3人の女性が動けなくなり、残る。
「北沼渡渉点を過ぎて立ち上まった所で、体が一気に冷え込んで
きた。パーティの後方にいたので休むスペースがなく、少し離れ
たところでがたがた震えて座っていた。腕で押えても上められな
いほど全身が震え、歯ががちがら嗚った。その時一時、『あぁ、
これで私は死ぬんだろうか』と思った。(本人の証言)
「とにかく寒くて気がついたら、テントの中で女性2人と並ん
で寝かされていた。夕方だったから19時頃か? ガスコンロが一晩
中、燃えていた。それでも寒いのでダウンを着て、さらにガイド
Bさんがレスキューシートを貸してくれた。それでもなお、自分
は低体温症だとは思っていなかった」(本人の証言)
◆女性客N(62歳)
※第2ビバーク地点。
「北沼分岐付近では、女性客Nさんの後ろを歩いていたが、彼女
は何ごとか叫びながら、四つん這いで歩いていた。私も同じよう
な状熊で、やがて記憶を失くした。どこで倒れたか記憶にない。
最初の停滞地点から5分くらいの場所だと思う」(女性客H)
※18時ごろ、ガイドBらによって収容されたテント内で。
「その時点で女性客Nが危険に見えたが、声を掛けたら反応があった
ので、急いでガスコンロに火を点けた。再度声を掛けたら反応が
ないので、心臓マッサージを20分くらい行ったが蘇生せず。」
(ガイドB)
◆女性客I(59歳)
※第2ビバーク地点。
「持っていたツェルトでは5人は十分に入りきれないので、男
性客D(69歳)にも手伝ってもらってマットを敷いて、女性客I(59歳)、
女性客N(62歳)、女性客H(61歳)を寝かせ、ツェルトを被せるように
する。ガイドB(32歳)も一緒に入って、添い寝するようにして、体
をさすり保温に努める。泣き出したり、大声で叫んだりする女性
がいた」(ガイドB)
※女性客Nさんが亡くなられた後。
「ガイドB(32歳)は、女性客2人(※IとH)にお湯を飲ませた
り、ガスコンロの火に手をかざしてあげたり、抱きかかえて保温
に努めたりした。やがて、2人の状態が落ち着いてきた」(報告
書)
※ガイドBは、救援の連絡を終え、夜7時すぎ、テントに戻
る。
「女性客I(59歳)が20時30分頃、意識不明になったという。10分ほ
ど心臓マッサージを施したが、蘇生せず。」(ガイドB)
※このビバークで使ったテントとガスコンロは、ガイドBが南沼のキャンプ指定地で見つけてきたものでした。この時点で、ツアーのテントは、下山を続行した参加者を引率する役目のガイドCがザックに担いだまま先行してしまい、最後まで使用されていません。
※ガイドBと、男性Dは、3人の女性の介抱のために大きな役目
を発揮しています。男性Dは、リーダー・ガイドらが第一ビバーク地点でとどまった際に、自分のツエルトを提供しています。また、ガイドBとともに、3人の行動不能の女性の、ツエルトへの退避、テント設営後の移動、テント内の保温などを協力してすすめています。資料では、装備していたザックの重量も17キロ近くと最大です。
男性Dがかなりの余力を残しながら、なぜビバークを決め、ガイドBと協力したか、本人の証言は示されて
いません。登山経験年数だけをみると、50年以上の方ですが、この方も次のように証言しています。
「低体温症で疲労し、意識が朦朧としている人を担いでテントに
入れる場面は、いくら考えても何が原因か、摩訶不思議だった。」(本人)
※結果論ですが、パーティー全体が2つのテントを使って、風をよけられる場所で早い段階でビバークしていれば、午後には風雨が落ち着きだしたこともあり、犠牲者はさらに減ったように思われます。
しかし、実際にはガイドが携行したテントは使われず、ガスバーナーとテントのデポ品を発見して、初めてビバーク体制が本来の形になり、テント内の加温も開始されます。
それは、北沼での最初の発症から8時間後の18時ごろのことでした。
※ここで、以降の経過を把握しやすくするために、下山を引率する役
目のガイドCの状況を、中間報告から紹介します。その前に、全体を把
握しやすいように、ガイドの体制について、紹介します。
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記です)
※第2ビバーク地点から下山を開始した10人の参加者のなかから、
次々と犠牲者が広がりました。なぜそうなったのか。そもそも引率役を
任されたガイドC自身が低体温症に襲われていたことが、全体を制約す
ることになったと見られます。
※第1ビバーク地点でリーダー・ガイドが残り、第2ビバーク地点
で元気だったガイドBが残るという、パーティーとしての統率・一体性
の崩壊が、さらにそのおおもとの問題としてあります。そうなったの
も、リーダー自身が北沼からの沢の渡渉と1時間の現場での介抱のなか
で、すでに低体温症にかかり、全体の指揮やビバーク地点の選定を含め
てあらゆる適切な判断ができなくなっていたことが、根本にある可能性
があります。
※中間報告は、ガイドの体制について、次の記述をしています。
「ガイドの選び方に問題はなかったか。ガイドの選定方法としては、
参加者の多い支店からガイドを出すことがアミューズ社の方針になって
おり、今回、広島と名古屋からそれぞれリーダーとサブガイドを出して
いる。ただ、2人とも今回のコースは初めてで、しかもスタッフ3人とも
各々面識がなからたという。コース経験の有無は、ガイドの絶対的条件
ではないが、万が一を考えると不安な構成である。今回のようなロング
コースでは、接客力優先ではなく、危機対応能力を中心に、厳しく選定
する必要があったのではないか。」(事故要因の抽出と考察)
「<ガイドの力量に問題はなかったか>
*登山歴、ガイド歴はそれなりにあったと思うが、危急時における対応
経験はどこまであったのか、また、危険予知能力(参加者の状況把握、天
候変化予知、時間経過判断など)をどれほど持ち合わせていたか、疑問が
残る。今回、特にスタッフの判断の迷いや遅れによって対応が後手後手
に回り、パーテイ全体をどんどんピンチに追い込んでいったと思われるふ
しがある。
*リーダー・シップとフォロアー・シップに関して認識が薄く、シビア
な状況下でのパーティ行動の経験が、不足していたのではないか。
*夏山といえども危急の事態を想定し、その対応についてスタッフは事
前にどれだけ真剣に打ち合わせをし、緊張感を共有していたか。また、危
急時の連絡方法についての共通認識を持ち合わせていただろうか。」(事
故要因の抽出と考察)
※ともかくガイド全体がこの時期の危機対応に低体温症を想定せず、
リーダーも最終引率役のガイドも低体温症になっては、パーティーとし
て存立できません。
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記です)
※ガイドC(38歳)についての調査委員の医師の報告(中間報告に
添付)の記述を紹介します。
「北沼分岐を出発時に低体温症を発症」。
「北沼分岐手前で渡渉中に転倒、全身ずぶ濡れになる。このことは後
に「最大のミス」だった、と証言している。」
「出発した時から全身的震えが始まった(35℃ 台)。トムラウシ分岐まで
20分ぐらいで着いた。ここで参加者2名が遅れたが、捜すだけの気力はな
く、遭難の通報を入れることだけを考える。
死を覚悟して早足で歩き、歩ける所まで歩こうとする。人を救う体力と
気力はなく、次第に足が棒のようになって膝が曲がらなくなり、転倒を
繰り返した。」
「トムラウシ公園付近では意識が薄れ出した(34℃以下)。
前トム平に就き、携帯で電話する。・・・このとき一緒だった女性客G
は、彼の返答は呂律がまわらなかった、と証言((33℃以下に下降し始め
る)。」
「前トム平より巨石のあるトラバースぎみの下山路(当時はこの辺に雪
渓があった)を下り、ザックを降ろして携帯を出そうとして、そのまま前
のめりにハイマツの中に転倒、意識を失う。・・・その時の体温は33℃ 、
あるいはそれ以下だったと思われる。」
「以後、救助隊に発見されるのが17日の10時44分、病院に収容された
のが11時35分で、意識が正常に戻ったのが12時50分頃になる。この間、
約21時間意識を消失していたことになる。帯広厚生病院の入院時の所見
によれば、・・・大声で呼びかけたり強く揺さぶると開眼する程度の意識
で、直腸温は34.7℃ であった。」
※前トム平。
「彼が(※携帯で)なんとか答えたが、ほとんどもう呂律がまわらない
状態で、盛んに『ポーター、ポーター』と叫んでいた」(女性客G)
「本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言し
ている。なお、低体温症は言葉では知っていたが、自分でもこんなに早く
意識障害がくるとは想像していなかった、とも述べている。」(調査した
医師の記述)
≪南沼キャンプ場手前≫ 1名死亡
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記)
※ガイドによる引率、パーティーとしてのまとまりが崩壊したもとで、低体温症を発症した参加者のあいだに、さらに犠牲が広がってゆきます。
◆男性客M(66歳)さん 死亡
※男性客M(66歳)さんは、もっとも早くから発症した人の1人。
以下、時系列でMさんの状況。
※8時30分すぎ。
「口ックガーデンの登りで、男性客M(66歳)さんが脚を空踏みし出
して、ふらふら歩いていた。支えて歩かせていたが、次第に登る気力
が失せたのか、しばしば座りこむようになった。これでは自分の体力
が持たないと考え、ガイドに任せた」(女性客G)
※第2ビバーク地点を出発。
「ガイドCが引率して歩行可能と思われる10人を下山させること
に。」(行動概要)
※12時すぎ。南沼キャンプ地手前。男性客Mさんが遅れた。
「引き返してみると、Mさんが直立不動で立ち上まっているのが見え
た。岩場の通過ではMさんを抱えて歩かせ、ほかの女性たらを先に行か
せた。さらにMさんをなんとか歩かせようとするが、脚を出せと言って
も、左右の区別ができない。平らな場所でもしゃがみこんで、立ち上が
れない。なぜ歩けないのか、自分には分からなかった」(男性客F)
※13時30分〜50分ごろ。
「男性客Fは男性客Mを歩かせようとするが動かせず、やむなく諦
める。」(行動概要)
※翌朝5時45分。
「道警ヘリが南沼キャンプ場付近で意識不明の男性1人を収容する。」
(行動概要)
≪第3ビバーク地点 トムラウシ公園上部≫
4人が取り残され、3人死亡
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記)
※現場は主稜線からトムラウシ温泉側へ下降しだした地点。ここまできて、取り残され、亡くなられた方の中には北沼付近ですでに低体温症を発症していた方もいました。
※中間報告は、便宜の上で「ビバーク地点」としていますが、テントは使われず(ガイドCが担いだまま)、2人はそのまま行動中に倒れ、残る2人は岩にもたれただけでした。
※発症した時点からの、証言を見て行きます。
◆女性客K(62歳) 死亡
※北沼で。
「北沼渡渉後、その先で皆で休んでいたが、女性客K(62歳)さんが嘔吐し、奇声を発していた」(女性客G)
※南沼キャンプ場の手前で。
「女性客K(62歳)さんが意味不明の言葉をしゃべり出した。そこで『Kさん、何か食べないと、歩いて下山できないわよ』と励ました。何か少し食べたようだ。ここで初めて死にたくない!と思った」(女性客G)
「女性客Kさんはぐったりしていた」(男性客F)
◆女性客L(69歳) 死亡
※南沼キャンプ場の手前で。
「衰弱していた女性客Kと女性客Lも歩行が覚束なくなる」(行動概要)
※南沼キャンプ場の先?
「女性客Lさんは奇声を発していた」(男性客F)
「トムラウシ分岐を過ぎると緩い下りのトラバース道となり、トムラウシ公園に続く。その公園の上部で、男性客Fに見守られながら、女性客Kの意識が次第になくなり、続いて女性客Lも静かになった。」(ガイドC)
※2人が倒れた場所のすぐ下では、女性客Oさんと、女性客Bさんが、ビバークを決めます。
◆女性客O (64歳) 死亡
※トムラウシ公園。
「登山道の脇に草むらがあり、大きな岩もあって休めそうな感じだった。自分でなんとなく、とっさに判断して、女性客Oさんに『ここで救援を待った方がいいんじゃない?』と声を掛けたが、それまでしっかり歩いていたのに、何も反応がなかった」(女性客B)
「自分のシュラフを女性客○に掛けて介抱していたが、18時30分頃、冷たくなった」(女性客B)
◇女性客B(55歳)さん(生還)
※本人の証言。
「北沼分岐の待機時間に寒さを感じた。立ち上がって歩き始めた時から意識
が朦朧とし始めた(35℃ 以下)。隊列を組んで歩いていたが、ほかの人がうまく
(真っ直ぐ)歩いていないなと思った。しかし、自分もよろよろと歩く状態だった。
南沼の途中の雪渓で思わずつまずいてしまい、ハッとして体勢を整えた時に、
今まで朦朧としていた意識が「我に返った」ようになった。 トムラウシ分岐
付近の歩行はよろよろした状態で、ストックで支えながら歩いた(35℃ 台)。」
※18時30分すぎ。
「自力下山を考える。しかし、もうすぐ暗くなって道に迷うことも考えられるので、ここで初めてビバークを決意する。・・・翌日早朝からの下山に備えて自分のシュラフとマットに横たわる。」(行動概要)
※翌午前3時40分。
「女性客Bが・・・ビバーク地点から歩き出し、前トム平へ下降する。」(行動概要)
※午前5時16分。
「道警ヘリが前トム平で自力歩行可能な女性客Bと、さらに意識不明の女性客1人(O)を収容する。」(行動概要)
証言の紹介を終えて、ここからは通常の書き込み形式で、2、3の大事な問題を「中間報告」をもとに書いていきます。
今回の遭難では18人パーティー(ガイド3人、参加者15人)のうち、10人が生還していますが、このうち少なくとも次の3人は、いったん低体温症の明確な症状が出たものの、助かりました。
従来は、登山時に低体温症を発症すると、歩行・会話・意識障害などにまで症状が進んだ場合、あるいは自分で体温を上げられない段階にまで症状がすすんだ場合、山では「患者」にたいする積極的な加温の手立てがとれないため、回復はきわめて困難であるというのが、低体温症の怖さとして強調されてきました。
今回は、この問題について、悪条件のもとでも可能な対応をすすめるなかで、新しい可能性が確認されてきたと思います。
◇女性客H(61歳)
北沼で発症。第2ビバーク地点で、意識を失う。症状から推定体温は33度。岩陰に運ばれ風をよけ、次いで3人の意識不明の女性の1人として、テントに収容。このとき、ガイドBと男性Dは、3人を保温するように体を寄せ、また、ガスバーナーでテント内部を保温。19時過ぎに意識が戻る。ダウンの防寒具を着、スープなどを飲み、夜を明かし、救出。Hさんは、雨具の下は濡れはなかったと証言している。
(同じテント内で女性2人が死亡しているが、うち1人はいったん夕方に意識をとりもどしたあと、急変、亡くなっている。)
◇女性客B(55歳)
北沼の出発時点で、意識朦朧、よろよろと歩く(35度以下)。南沼でつまづき、我に返る。トムラウシ公園上部の岩のたもとでビバーク。このとき風は弱まりだし、雨があがっていた。マットレスを敷き、シュラフに入って、そのまま3時過ぎまで眠らず過ごす。自力で1時間下山し、救助ヘリに発見される。本人はどこで着用したか覚えていないが、雨具の下にフリースを着用していた。また、ガイドCと同じく、チョコを行動食として食べてきた。
「自力判断でビバークした参加者は、この1名だけである」(医師の調査報告)
◇ガイドC(38歳)
3人の中ではもっとも症状が重く、翌日昼前、意識をなくした状態で救出(前項に詳述)。自力生還ではないが、テント、ツェルトなしで一晩倒れたままで生存。体温は推定で33度かそれ以下まで低下。服装等に保温性があった可能性。また、倒れる前にチョコなどの行動食をとっていた。
以上の内容から、低体温症の典型的な兆候、自覚症状などが出た場合も、リーダーがただちに、風よけのできる場所への退避、ビバーク、そのためのテント、ツエルトの用意とガスバーナーによる保温対策、重ね着の実施、温かい飲み物、など、可能な手立てを尽くすことが、一定程度の効果を発揮することが確かめらるように思います。
この点で、中間報告が、症状が出る危険がある場合に、そのまま体温保持(熱産生維持)のために、緩やかに行動を続けるという対応が適切でない場合があることを指摘しているのは、とても大事だと思います。
今度のような特別の悪条件下では、行動することで生まれる熱量よりも、体から奪われる熱量の方が、上回っている人が多かった。(着衣、食事内容、運動能力等により個人差あり。) そのような場合は、適切な場所でビバークし、保温・加温とカロリー補給に努めることが大事だということです。
発症するメンバーが出たら、なおさらただちに、ということです。
実際上は、突然の意識・運動障害、判断力の喪失を想定して、この対応は早めにすすめることが大事になります。
同時に、何よりも登山者本人が、低体温症を想定した非常時の対策、保温性のある下着、重ね着の用意と着用をおこなうことが、重要だと思います。晴天・好条件用とは厳密に区別して。加えてツエルトの用意も。
そして非常時にこそ、非常食・行動食の用意と行動中の摂取が決定的であることも、確認できるように思います。 あえて言えば、非常食は山で飢えないためだけにあるのではなく、非常事態で行動を支える用意として、備えるだけでなく、積極的に食べるためのものである、ということでしょうか。
それにしても、Hさんは前日も体調不良(高山病)から吐いてばかりで、2日間十分な食事をとれていなかったのに、ここまで回復できたのは、周囲の救護の力の大事さを示しているように思います。
今回の「中間報告」は、驚きと発見が幾つもあり、登山者の1人として学ぶことが多いものでした。
その1つに登山時の食事の問題がありました。
本州の、施設が整った山小屋を使う登山の場合、ツアー登山も山小屋の、ある意味では多面的な保護の恩恵を受けます。食事では、北アや八ツでは、途中の山小屋で昼食やおやつを食べることもできます。
ところがトムラウシ山の縦走の場合は、無人の避難小屋を使ったとしても、大きな制約があります。今回も、濡れたソックスや雨具は乾かないし、就寝中も風雨の吹き込みでシュラフが濡れたりする。何かほしいと思えば、その分、自助努力がいるし、総じて必要な装備は増えることになります。
そのしわ寄せのなかで、非常時の服装や装備を、携行できない、という参加者もいました。
そして、しわ寄せが、もう一つ及んだ分野が、食事だったということを、私は、中間報告の「運動生理学的見地から」の調査と考察を読んで、認識させられました。
ツアー登山の場合、個人がそれぞれ参加するため、報告にあるようにアルファ米とレトルト食品のおかず(カレーなど)のように、かなり簡素な食事が続きます。
またコンロも個人ではもたないことが、普通のようです。(第二ビバーク地点で使用できたコンロは、南沼の他人のデポ品でした。)
コンロはシェルパ役の場所取りガイドが共同利用で用意しています。そして、ガイドが沸かしてくれたお湯を、参加者に配るという方式で、各自の食事の準備が進められます。
自前のコンロなしの条件では、メニューが制限されます。
また、濡れたものは乾かせません。初めて知る実情でした。
私のこれまでの山の経験では、幕営などの際の食事はもっとも楽しく、好きな素材やメニューを用意しておなかいっぱい食べることに集中する、そういうイメージがありました。そこではコンロは大活躍します。家族の山行でも、同じ。食糧計画は、共同の準備と調理がその食事の基本条件になっています。
施設が完備した山小屋を使えない山域に入る場合、ツアー登山では個々人が自分の体力と相談しながら、食事を制限するということが、起こっていたことになります。少なくとも、今回の会社の体制ではそうでした。
この我慢と制限は、ツアー会社が参加者に示した荷物の目安にも、現れていました。パンフレットでは「山行に支障を来たさない範囲で背負える最大荷重の目安」として、女性の場合、「50歳では12キログラム、60歳では8キログラム」と、ほとんど非現実的な数値(日帰り登山並み!)を基準に示しています。
これは、お手軽登山ツアーのお誘い以外の何物でもありません。
しかし、3日間40キロの無人の行程を行く大雪山の縦走は、このような装備と食糧の携行で対応できるものではありませんでした。
実際に参加者の食事はどうだったのか?
中間報告によると、3日間のこのツアーの食事は次のようなものでした。
「生還者が食べていた内容を大まかに言うと、朝食としては、インスタント・ラーメン、アルファ米(前夜の残りの半分という人もいた)、スープなどの回答が多かった。行動食については、カロリーメイト、ソイジョイ、ゼリー飲料、バナナ、チョコレート、アメなどを食べていた。また夕食では、アルファ米とカレー、調理済みのアルファ米(半分だけ食べるという人もいた)、スープ、野菜といった内容だった。
これらのエネルギーの総和は、多めに見積もったとしても1000kcal台の前半から後半にしかならず2000kcalを超えている人はほとんどいないように思われた。」
この考察の筆者は、本来必要な参加者の1日の必要カロリーは、女性で2500キロカロリー弱、男性で3500キロカロリー弱だったと算出しています。しかもこれは、気象条件が理想的に良い場合です。
これに事故があった日のような低温、風雨のなかでは、必要カロリーは「この値の数割増し」と算出しています。
つまり参加者のカロリーは、必要量から見て、「摂取量が大幅に少なかった」と書いています。前日の雨中の行動と含めて、半分のカロリー程度しかとれていません。
熱源的に、カスカスの状態を続けて、低温・強風・雨の稜線にとりついていたことになります。
「中間報告」のこの考察では、今回のように「風に逆らって歩く場合には莫大なエネルギーを使い、疲労を早める」と、述べています。
そして、「今回の低体温症の発症が非常に急激だったことを考えると、寒さや風といった気象要因だけではなく、その前段階として、体力の非常な消耗が関係していた可能性がある。」としています。
低体温症に抵抗するための熱の産生が、1)激しい行動でカロリーが早い段階で失われただけでなく、2)粗食3日目という条件で早々と補給源が尽きてしまった(個人差あり)という考察です。こうした場合、筋肉のたんぱく質を分解してカロリー源とする防御反応も、起こりうるという指摘も記述されています。
関連は不明ですが、医師の報告では、精密な検査が行われたガイドCの場合、代謝面や、肝臓の異変を示唆する可能性をはらむ、幾つもの異常な数値が検知されています。
多くの登山者は自己防衛的に、本能的にも、食事の量とともに、行動中のカロリー補給には気をつけています。
しかし、低体温症という課題に向き合う形で、食事の面からのフォローを改めて見直す必要を感じさせられました。前コメントで書いた、非常食をこういう場合に積極的に食べることも、その1つです。
この遭難事故調査特別委員会の座長のS氏は、私も一度、少人数で食事をする機会があった方です。山へ入る修行僧を思わせる風貌をもつ、一本気な方という印象を持ちました。
座長としての巻頭の文言では、今回の「中間報告書」は、登山者の目線で事故原因を明らかにする、という立場からまとめあげたと述べられています。私もこの位置づけには、賛成できますし、調査と考察の内容はその目的に応えるものがあると感じます。
登山の愛好者と岳人のなかに、この「報告書」の中身が広く認識され、討論・交流されることが大事になると思います。
私のここでの一連のコメントも、そういう趣旨でおこなってきたものでした。
その立場から、最後に、「中間報告書」について、私の意見を述べることにします。
1、低体温症の脅威と対応を登山界全体が認識できる体系的な構成に。
最初の私の書き込みにあるように、この「中間報告書」の一番の特徴、日本の登山・遭難の歴史のなかでの新しい特徴は、大量遭難の直接の死因を「低体温症」ととらえ、そこにいたった経過と原因を多くの生還者の証言をもとに多角的にとらえて教訓化しようとしていることにあります。
調査に参加した複数の専門家の記述も、大量の犠牲者を出した直接の原因は低体温症だったことを的確に規定しています。パーティーが生死の際で直面したのは、まさに低体温症との戦いでした。
ところが、この「中間報告書」を第一報したマスコミ報道は、「ガイドの力量不足、判断ミス」に焦点を置いた内容になっていました。ここには、書いた記者の認識の段階も反映していると思います。
しかし、「中間報告書」の構成を見ると、全体を通して読み解けば低体温症の問題がくっきりするものの、たとえば事故にいたった原因の総括的な考察は、総ざらい的に問題を列挙するものになっています。先入見なしに、末尾までしっかり読みこまないと、何が起こったのかが体系的につかみにくい構成になっていることも、関係しているように思えます。
この大量遭難は、8人の犠牲者が滑落や落雷で亡くなられた事故ではありません。ヒグマに襲われたわけでも、沢の鉄砲水に呑み込まれたわけでもありません。
パーティー自身は「無自覚」だったけれど、彼らを襲ったのは報告書が指摘するように、低体温症でした。個々人の経験と技量、ガイドの力量はまさにその点で問われました。
そして、低体温症の危険を予測し、予防し、出発前と行動開始後、さらに発症後のあらゆる局面でこれと闘いぬくためには、従来の登山者の認識の水準を超えるような、総合的な判断、認識が問われた事件でした。生死を分けた勘所も、気象、運動生理学、装備と食事、救護の在り方など、多面的に検討されるべきものだったことは、中間報告書が示す通りです。
私が今回の事故でもっとも大事だと思ったのは、18人の全員が、低体温症に無警戒だっただけでなく、言葉として低体温症を現場で頭に思い浮かべた人もガイド1人だけで、かつその認識も現場の進行と対応させて考えるにいたらない、おぼろげな水準のものだったことです。
現場では、3日間の全行程を通して、何より、症状が出てからさえも、「低体温症」という言葉そのものが、ガイドと参加者の誰からも発せられることはありませんでした。
参加者には30年、50年という登山の経験者もいました。それだけの登山者が集まってもなお、低体温症は現実の脅威として現場で認識されることはなかったのです。介護を続けながら「摩訶不思議な出来事」と最後まで思っていたというベテランの参加者の証言が示すとおりです。
これは、例えて言えば岩場に取り付いている登山者が、何が危険か、どう安全確保するか、予測も認識もしなかったようなものです。これでは、ガイドも参加者も対応・備え・回避のしようがありません。
不幸なことに、低体温症は、人の判断力、行動力そのものを突然、奪うものでした。リーダーガイドが「力量不足」の焦点に立たされていますが、彼のパーティーを襲ったものが低体温症でなければ、彼は長年の経験と判断とを生かして、事に対処していた可能性もあります。低体温症の認識がなかったからこそ、ガイドと登山者側の対応も後手に、あるいはなすすべもないところに、追い込まれた可能性が強くあります。
今回の大量遭難事故の最大の問題がここにあります。
(関連して言えば、私が遭難直後のツリーで書いていたことですが、北沼の渡渉も、低体温症との関係でより力点をおいてほしいことです。雪渓に半ば埋まった北沼の水温はほぼ零度です。急激な発症者が直後に複数出たのは、この水に漬かったことと深い関連があります。そのうえ1時間、待機させられ、発症が拡大した。低体温症への無警戒の顕著な現われと思います。北沼は現場の判断の最終関門でした。「もう引き返せない」という証言の通りです。)
そうした問題であることが把握しやすい構成、原因論の論じ方になっていれば、記者のみなさんもああいう記事の中身にはならなかったでしょうし、何よりも多くの登山者にとって、これは新しい、深刻な問題が提起されていることが、受けとめられることにもなります。
私は、今度の遭難の最大の問題は、日本の登山界でその程度にしか低体温症の怖さが認識されてこなかったこと、そのことにあると思っています。そこを広く指摘し、その問題を根幹にすえて、体系だった報告書、とくに原因究明をすすめることが、事故報告書として大事ではないかと考えます。
それこそが、広く登山者の目線で原因と教訓を明らかにする方向ではないかと思います。
2、ガイドの水準、認識を向上させ、ガイドが参加者の命にかかわる問題で的確な判断を保障しうる制度の提案。
2つめの問題は、いま述べたことを本当に実行するには、解決策として何がかなめか、ということです。
報道のようにガイドの力量不足がかなめだというならば、個々のツアー会社と個々のガイドの今後の努力に委ねるという策が基本になってしまいます。
そのことで、解決がなしうるのでしょうか?
パーティーがあの気象条件とパーティーの構成で、足の揃った静岡のパーティーでさえ夜7時半にようやく十勝側に下山できたような行程に出発せざるを得なかったのは、行くしか選択肢がない立場にあったからでした。
麓の温泉は予約済み、バスも待っている、飛行機の便も団体で予約済み、当日は同社の別のパーティーが避難小屋に入ってくる、もしかしたら、下山後はすぐ次のガイド番にふりあてられていたのかもしれません。
そして、3人のガイドの構成そのものが、ルートの未経験者が2人もいる、非力なものでした。中間報告書がいうように、ガイドの構成、予備日なし、出発の判断も自分の裁量が限られる、そういう条件で、この登山は始まったのです。
小屋にサポート役と、テントとガスコンロを、その日に入れ替わりでやってくるパーティーのために残しておくという、無防備な体制でです。
制度としては、ガイドが会社とは独立に安全最優先の判断をおこないうる、そうした体制・制度に改善されることが第一の問題です。それでこそ、ガイドの力量は発揮されます。
そして、その制度化と併せて、ガイドの力量の向上が必要です。
人の命を預かるのですから、会社から独立した立場でこうしたツアーに、専門的なガイドを配置することを義務付け、ガイドの判断によってその地位や生活が脅かされない立場を保障する。
そのうえで、ガイドが行った判断には、ガイドは会社とともに、全面的なそれぞれ独自の責任を負う。もちろんガイドは、接客役とは区別して、有資格者でなければなりません。ガイド協会が雇用形態の面で、会社側と専門ガイドとの間を仲立ちする仕組みづくりも一案と思います。
こうした制度が創設されないかぎり、コスト優先のガイド配置とツアーの運営が手つかずになり、事故はこれまで通り、繰り返されることになると思います。
ガイドの力量・判断の問題は、いまに始まったことではなく、長年の野放しの結果、今があるということが大事と思います。
「山と渓谷」2010年3月号で、3たび、トムラウシ遭難事故の特集をおこなっており、そのなかで、ツアーに参加した方の新しい証言を載せています。
経過の全体は、ここまでの「報告書」の分析で書いてきた通りです。
今回の証言で新しくわかったことは、最初に行動に支障をきたす参加者が出たのは、ロックガーデンではなくて、ヒサゴ沼から縦走路に上がる雪渓、また縦走路に出てすぐの地点だったことです。2人が介助されなければ歩けなくなった。
北沼までかなり長い時間がかかった理由は、すでにこの段階で、行動が困難な参加者が出たためだったことになります。
先の行程の長さ、気象条件を考慮すれば、そのまま北沼へと進んだ「判断」が問題ですが、ガイドの間にはこの状況でも、相談・検討はなかったと、レポートされています。
先への行動に駆り立てたものは、なんだったのか。ガイドをふくこの会社の状況が背景にあるとしか思えません。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する