宗教は人びとの心の安寧や地域の社会教育の場としては、意義深いものと思ってきましたが、人の死にかかわる諸行事はときに重荷になるし、お墓も私には不要と思ってきました。
そういう私が、父母らのそれぞれの死に直面したときは、先々のことをしっかり考えるゆとりがありませんでした。喪主として葬儀をおこない、父母は私の祖父の家から独立していたので、父母が生まれた山間の寺の、新しい墓地に墓を建て、世間並みの範囲で年々の葬祭の儀式に付き合ってきました。それは、ただただ、まわりの親戚の雰囲気に押されてきたからでした。先々までよく考えなかったのです。
しかし、体にいろんな問題を生じる年代にさしかかってきて、このごろはやはり、自分の志を通すべきと思ってきました。
父母の墓は、子どもたちには引き継がせることはできない。父母に責任を負う私の代で、なくすべきだということです。
墓地は、原発の放射能が比較的長期にわたって残ることになってしまった、阿武隈山地の一隅にあります。ここの放射能は低くはないけれど、大人は年齢的に心配ないレベルですが、郷里の姉はまだ孫を墓地から遠ざけています。
姉の夫は関西出身で、「先祖の墓」はそちらにあり、父母の墓にはもちろん入りません。
姉の子どもたちも、みな、とうに家を出て都会暮らしです。
私たち夫婦は死んだら自然に返る主義です。この墓は使わない。首都圏に住む私の息子たちとその家族は、わざわざお彼岸のお墓参りに、福島まで行くこともなくなるでしょう。
こうして郷里には誰もいなくなり、このままでは父母の墓だけが残されます。墓を守る人は誰もいなくなる。
この墓では十三回忌までは、法事をしてきました。その後は、年間2万円(首都圏に比べ格安)の「護持会費」とたまに請求される募金をお寺に支払うことで維持されています。
調べてみると、いまの菩提寺のお世話で墓をなくす場合は、次の費用を負担すれば穏便にすすめることができるそうです。
○「永代供養料」。いま支払っている年額(2万円)の30年分程度。(所によっては×数倍を請求されるの寺もある。)
○墓碑の「閉眼法要。「お魂抜き」。数万円。
○墓石の処分費用。15万円前後。
○墓の石の塀、基盤の石の除去と更地化。数十万円。
○お骨を取り出す費用。5万円前後。
総額は、165万円以上。20年ほど前に墓地を設けたときの出費に迫ります。(ちなみに、墓をなくすのではなく、都内に移転させてくると、この倍額以上の出費になります。)
墓をなくす計画に数年内にとりかかるとすれば、郷里往復の手間をふくめ、一大事業になります。
とくに姉や親戚筋の説得は、かなり難題です。当分、話を切り出すことさえできない。
そういう心の痛みや動揺を思うと、改めて、子どもの代には継がせることはできないと、なおのこと感じました。
その一方で、いまどき、全国の都会でも田舎でも、管理されず打ち捨てられたお墓が各地で問題になっている、その背景を考えさせられました。
いまの時代、こういうケースのもっと厳しい条件の事例が激増してきて、無縁墓の放置があちこちで問題になっている。
私の希望は、自分が死んだら、お墓などで形に残すことはしないで、少量の遺灰をどこか人知れず自然に返してほしい、誰にも重荷にならぬように、ということだけなんですが。思い出は、知る人の胸に残ればいい。
たったそれだけのことに進むのに、関連する多大な後始末と身うちの説得の仕事を、事前に済まさねばなりません。
8月に帰省したときは、義兄に、「私の代でお墓の管理は難しくなる」ことを話しました。その先は言えなかった。
高倉健の遺作「あなたへ」で、妻の遺骨を沖の海に流すのに、現地で苦労した場面が出てきましたが、彼(主人公)はずっと自由な身だった。
私はこの件では、はるかに自由度がない。自分の希望も親せき筋に堂々とはいいにくいです。
こんばんは。
全く同感です。
私の場合、平均寿命には少しだけ間がありますが、いつどんなことが起きるかはわかりません。
自分が死んだら葬式も墓も要らない。
願わくば自然の一部として動物や虫や他の生き物の養分になるか、見苦しいけど献体して人様の何かしらのお役に立てれば存外の喜びだと考えています。
(もっと言えば、燃えるゴミの日に出してもらっても構わない。でも、逆の立場では絶対に無理ですが! )
ところが、残されたものにとってはこういう謂わばイレギュラーな後始末が一番やっかいで面倒なことのよう。
そんなことでは不本意ですし本末転倒なところもあります。
よその国では川に流したり、「犬に喰われるほど自由な」最後を迎えることもできるようですが。
自らの生前になんとか道筋を付けておけないものかというのが課題となっています。
そして情けない話ですが、実際にはまだ何にも実行できていません。
山をやってると余計にいつ何時何が起きるかわかりませんので、本当は今すぐにでも手をつけなければならない課題だと考えてはいるのですが
mieeさんも、同じようなことを考えていたんですね。
私の場合も、自然のままで生まれ、死を迎えるときもそうでありたい、自分のことは自分でしっかり後始末をしたい、子どもや孫にまで負担をおわせたくないというのが、一番の動機です。
でもそれが、いろいろと難しい、説得不能な状況に置かれるのが、現実です。
親戚筋のことを考えると、たじろぎかねないけれど、自然のままを貫くしかありません。
tanigawaさん、こんばんは。
私も前々から家族に言っています。
『死んだらお墓はいらない。できることならば
大好きなお山の片隅にでも撒いてほしい』
まだまだ先の話でしょうにと笑われます。
けれど死というのは、年齢も健康状態も環境も関係なく、突然訪れるものだと知っています。
もう何年も前の話ですが、大切な人を呆気なく喪ったときからそう思うようになりました。
私は無になって、その脱け殻も自然に返ってほしい。
誰かがときどき私を懐かしんでくれたら、それだけでよいと思うのです。
ですが両親のお墓となると難しい問題ですね。
まだ健在ではありますが、もし順番通りなら、お墓を持たないという選択はできそうにありません。
自分の最後が自分で選べたとしても、両親の最後を私の考え方で決めるのは、大変難しいところです。
すでにあるお墓をなくすのってすごく大変なのですね。
とても考えさせられました。
algaeさんも、家族には宣言してきたんですね。まだ、早すぎると、思えちゃいますね。
でも、私の場合は、父母のときに先を見ていなくて、荷を重くした経過もあります。
あの時点で東京近辺で、もっと身軽な対応をしておけばよかった。田舎の墓は、いったん形ができると、たいへんです。
そういう意味でも、「まだ早い」と思っている若い世代の方にも、先をよくよく考えてほしいです。
taniさん今晩はです。20年後の悩みを見事に、現在進行形の如く、思い起こさせる内容ですね。お墓は家系継承が前提のシステムで成り立つ仕組で有ると感じていました。が、現在は核家族や地域移動や移住が頻繁となっている状況から大分事情が変わって来ていると思います。そもそもお墓が全て継続されたとして何千年、何億年経てば日本中がお墓だらけになるかも知れません。
自分もこの先考えると住所は長野県、両親は静岡県の御殿場に眠っているし、父方のお爺さんは福島県に眠っています。お墓詣りだけでもちょっとした旅行になります。
また今の所継承者となる子供はいません。
揺りかごから墓場までというならば、戸籍謄本には埋葬地か遺骨の所在地も記載して管理する必要が有るかも知れません。
そうそう住基ネットにも登録して子孫はご先祖様の命日が来るとその通知が来て税金が徴収される仕組みになって、社会保障の一環となるかも知れません。
家の引越しと共にお墓も引越し?なんて事も考えられますね。
こうなるとお墓は子孫への”ツケ”いわゆる”負の遺産”となり重荷となってしまいします。
(以上感想です)
本来お墓にその様な感覚を感じてしまって良いのだろうか?
お墓を守る事は家系継続、子孫繁栄、生きる目標、生きがい、心の拠り所、体裁を整える、見栄、心の故郷、 非常に悩んでいます。
この様な内容を書きますと諸先輩方々から、大きく叱られそうですが、不徳の至らぬ若輩者の迷える子羊という事でご勘弁を頂ければと思います。
でも将来の悩みであり何時か方針決定と実行が必要となる時が来ます。
kintakunteさん、お付き合いいただいて、ありがとう。
>そもそもお墓が全て継続されたとして何千年、何億年経てば日本中がお墓だらけになるかも知れません。
言われてみればそうですね。
それが成り立ってきたのは、これまでは、墓地が簡素で、使い回しが利く形態だったぁらでしょう。今はお骨もずっと残ります。
ここで書いてきたことは私の意見ではありますが、事情が変われば、誰にとっても直面する問題だと思います。そして、現代のようにここまで「進化」してしまった墓地の体制では、がんじがらめにされる個人、お墓を無縁墓にしてしまう個人などなどは、恐るべき規模で生産されてくると思います。
私のいまの悩みは、世代がすすむほど、割合を増してくるでしょう。
どこかで、現代に見合った形に、切り返るしかありません。
たにがわさん
おかねかかるんですね。お墓と空き家と、日本はいま、縮み始めた後始末をする時代の入り口ですね。誰でもそんなにお金払える人ばかりじゃないですよね。
死者とのつきあいは、思い出のある人までは必要ですね。つまり墓は、残された生きて居る者の為にあるのだと思います。死ぬ人の希望は多分、どうでもいいのではないかな。
残った人が気の済むようにするのが一番いいのでしょう。でも、残った人は普段から死者との付き合いをどうするか考えていないから結局普通になるのですね。散骨してくれと言っておいたほうが親切かもしれません。
僕の見たすてきなお墓は南アフリカのスワジランドの田舎で、民家の横に土が盛ってあって、棒が一本建っていて、子供たちがその上を飛びまわって遊んで居ました。「これがおじいさん、これがおばあさん」と話してくれました。
yoneyamaさん、出勤の時間なので、今晩、お返事します。
yoneyamaさん
>南アフリカのスワジランドの田舎で、民家の横に土が盛ってあって、棒が一本建っていて、子供たちがその上を飛びまわって遊んで居ました。「これがおじいさん、これがおばあさん」と話してくれました。
私の郷里のお墓も、東京オリンピックあたりまでは、黒御影石の墓石なんか珍しくて、多くは、色は大谷石みたいで、白っぽい、ちょっと風化しやすい細長い石を、土盛りのてっぺんに立てただけ、というお墓が大半でした。
先祖や家長の墓は、ちょっと大きめの土盛りだったり。(長さ80センチの長円形)
子どものときに亡くなった人の墓は、土盛りだけ。(長さ40センチ、円形)
土葬だったから、8畳くらいの面積のあちこちを、人が亡くなるごとに、順に掘り返して、埋めて、土に返していた。
そのころは、父母の実家筋のそういう土盛りの一帯に連れられて行って、これは誰、これは誰、これはお前のひいばあちゃん、などとその都度、説明された。
それが、70年代にどんどん田舎のお墓も変貌していったのですね。
骨が長く残ってしまう、お墓のつくりも、近年のことです。
もしかして、そうなる前の、昔のままの、「人が土に帰る」方式の墓だったら、私が書いてきた種々の問題は、時間がすべてを解決してくれたのかも知れません。
「魂ぬき」とか「墓石の撤去工事」など、はじめから問題にならない。
うーん、これは、近年の人間たち自身が、過去にはなかった、とんでもない新風習をつくりだしてきたのかもしれないですね。
tanigawaさん、こんばんは。
先日のTVで同じようにお墓の終活についてやっていたのを見ました。
育った実家から離れて生活基盤を持つ場合や、子供がいない(あるいは孫がいなくなりそう)と言う場合が中心でしたが、それ以外であってもいろいろな可能性がありますね。
ウチは分家した曾祖父の代からが東京暮らし、ちゃんとした(?)墓石を作ってやっと30年ほど。
子供に残すべきか否かはまだ決められませんが、祖父母も眠る墓の扱いは、父(長兄)や母が入った後も叔父叔母の意向を抜きにしては、なかなか難しいです。
自分自身は散骨に惹かれる面もありますし、カミさんは(今のところ)ウチの墓に入りたくないと言う。それに子供に余計な負担は掛けたくない。
でも、まだまだ長生きしないと自分の意思表明をすることすら出来ないでしょう。墓があるだけ心配が要らないと思っていた時代から、逆の心配をする時代へ。難しいものです。
そのためにも健康管理に気をつけなければ・・・。
取りあえず、来月ちゃんと検査に行ってきます(w
fireboltさんのところも、奥方さまは、実家のお墓は入りたくないんですね。
いま多いですね、こういう選択は。
実態的にも、経済的にも、○○家に嫁いだという実感がもてない現実が、妻たちにはありますからね。
うちのカミさんも、堂々とその道をゆくタイプです。
で、私の場合は、死んだあとには、お荷物にもなりかねないものは何も残したくない、ただそれだけの気持ちです。
子どもや孫たちには、どこへ飛んでゆくのも、自由なままにしておきたい。
>そのためにも健康管理に気をつけなければ・・・
そうですね。私もうまく歳を重ねることができれば、自然に、親戚一同にたいする自分の発言権も、少しずつ強みがでるかもしれないですね。
母は9人兄弟の末っ子だったこともあり、幸い、私の叔父叔母は、全体に年代が高かったため、1人が残るだけです。しかし、いとこも、たくさんいて、私から見てみな目上です。
だから時の移ろいだけでなく、世間の「お墓のあり方」にたいする考え方や、対処がどんどん変化してゆくことも期待したいです。
いろいろあるなかから、自分らしいものを選びたいです。
自然体でいきたいのです。
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