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日航機事故では、以前の日記に「あの日の御巣鷹の尾根で 1985年8月12日」を書きました。
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3964
この映画は、これまで、原作ともども拾い読みだったので、今回初めて通しで見ました。現場の様相と地元消防団の活動ぶりは、よく再現されていたように感じました。
ただ、現場の実感と少し違う面もあり、追加で書いておくことにしました。
事故現場へは、私は翌朝10時前に同僚カメラマンと入りました。報道機関としては早い方で、4人の生存者が尾根に上げられるより数十分前でした。
今回アップした写真は、そのとき終始同行した写真部カメラマンが撮影したうちの1枚です。
写真右上端に小さく写っているのが私です。
現場と映画との大きな違いは、ジャンボ機の主翼の大きさ。主翼は前部と後部が破壊され、翼の中軸の部分だけが残るだけになっても、とても巨大でした。人は写真では小さい。
そして、映画と違って、翼はまだ熱くて、近づけなかった。油の焼ける強烈な臭いがたちこめて、残った燃料や化学素材の発火も心配だったため、映画でのようには近寄れませんでした。
地面も映画では土が目だっていましたが、赤土が見えるところは機体の激突で掘れた場所くらいでした。全体に、足の踏み場がないほど、機体の破片等が散乱していました。
「山」としての御巣鷹山という点では、映画では、「北関東新聞」(実際の社名は別)の若手記者2人が、ルート判断を誤るなどして、現場到達がかなり遅れた様子が映し出されていました。
彼らが入ったルートは示されていませんでしたが、入山は群馬県側の上野村でした。林道を離れて沢を遡行するルートで、ここは事故の翌日未明から、もっとも多くの消防団、取材記者が入ったルートです。私たちの同僚チームの主力メンバーも、こちらから入りました。
当時は林道を離れれば、作業道もすぐに消えて、「沢登り」ときつい登りのヤブコギがあったルートです。難所があると、行列状態になるところもあったと聞いています。
映画では、そこで「北関東新聞」の2人が、尾根1本を間違って、かなり遅れをとります。迷った原因は、消防団を含めて人が多く入っただけに、本来のルート以外にも踏み跡や迷い道ができてしまったからかも知れません。
私の同僚5人もこの群馬県上野村側から「沢ルート」で現場へ入りました。
でも、私は同僚カメラマンとともに、長野県側の南相木村に置かれた前線本部で情報を集めました。午前4時前、墜落現場は、御巣鷹山の尾根と確定。地図から、三国峠からの稜線を切れ切れの踏み跡を進み、現場の真上から下降するルートが行けそうと判断して、行動を起こしました。
林道に土地勘がある長野県側の地元のスタッフに車の支援を受け、御座山の東の肩を抜ける近道で三国峠へ到着。ここから稜線通しに進み、前方に墜落現場からの煙を確認しながら、御巣鷹の尾根の真上に到達し、薮を漕いで現場に下降しました。
映画で疑問だったのは、「北関東新聞」の2人が、現場到達が遅れただけでなく、帰社は、さらに大きく遅れたことでした。現場取材後、上野村側の人家に帰り着くのが深夜になり、社に戻るのは日付が変わって、締切すれすれになっています。これも、当日の現場の往復の所要時間から見て、かかりすぎに思えました。
地元紙なのに締切ぎりぎりの帰社という設定になったのは、新聞社内の上司らが、現場雑感の記事をいれるかどうかで、「内輪もめ」をしていたので、それを盛り上げる創作部分だったのかなと思いました。当時は携帯はなかったけれど、上野村まで戻れば、編集局にはいくらでも電話ができたはず。
「山」という面からいうと、水、食糧、非常用装備の問題があります。
御巣鷹の尾根に辿りついた記者、カメラマンらは、半数ほどは街で着る服装のままでした。現場は未明に確認されたため、すぐに行動を開始して、街着のまま山に入ったわけです。沢に出てびっくりした人も多かったでしょう。
私も、東京を発つ時点では、現場がここまでの山岳地域とは予想できず、ショルダーバッグにズック靴、上着だけはサファリ・シャツでした。地図は事故当夜に寝ずに待機した小学校(警察の前線本部)で見たものを、出発時に頭に入れただけでした。
バッグの中身は雨具の上衣と水筒、非常食にヘッドランプ。地元のサポートの方からパンも差し入れ。
映画では水がなくて苦しむ記者の様子が伝えられましたが、私と同行したカメラマンとは、水筒と食物には助けられました。沢の水は、とても飲める状態ではなかったので、下山するまで苦しかったと私の同僚らからも聞かされました。
非常用の態勢ができていなかったのは、救助隊、自衛隊も同じで、4人の生存者が尾根に担ぎ上げられたのに、それから2時間も、病院への搬送は開始されず、4人は炎暑の尾根に寝かされたままでした。消防団員らは怒った人もいました。
原因は、事前に応急の診察をする医師が、上野村に待機していなかったこと。そして、ホバリングするヘリに収容するためのしっかりした担架がなかったこと。
消防団は、木を切って応急担架をつくり、急斜面を数十人が手をつなぎ、ロープで支え合って、4人を尾根上まで早い段階で押しあげてきたのですが。
生存者がいるという構えの救助態勢ではなかったことを、現場で思いました。
1985年の夏のことでしたから、もう30年がたちます。
こんばんは。
この事故には思い入れがあります。
tanigawaさんは報道関係者の方でしたか。
あの時、きりもみ状態になりながらも愛するご家族にメモを残した方がいらっしゃいました。
それは私が当時勤務していた職場の、直接ではありませんが上司でした。
後から振り返れば事故前日なのですが、前夜彼は大阪から会議の為に東京の本社へ出張し、無事に会議を終えて大阪への帰路で事故に遭ったのです。
キップ手配の手違いが幸いして、乗るはずだったもう一名はその便に乗ることができませんでした。
前日の会議前には、私の机のゴミ箱の上に座って熱く仕事への熱弁を語っていらっしゃいました。
職場では真面目一辺倒のちょっと厳しい方とされていましたが、当時入社して数年足らずの私にとっては、自分のゴミ箱に腰を掛けてアレコレ話をしてくださるこの方をコワいとはまるで思わなかったのを覚えています。
翌朝出社すると、電話が鳴り響いていました。
詳しく報道がなされるほどに、事実が腹にたまり、現実を認めざるを得ずしんどくなりました。
未だに思い出せばそうです。
ご家族の方々の思いはいかばかりか。
山の話題とは離れてしまいましたが、村長様はじめ地域の方々や関係者の方々のご尽力には頭が下がります。
これが、道楽で行く山の事故であっても、周囲の方々のご苦労やご心労は大変なことです。
努力すれば防げる悲しみは、努力したいと思います。
つれづれとしょうもない思い出話を失礼しました。
miee さん、ごく身近に、搭乗しておられた方がいたのですね。
あの日、あの便に乗っていた方々のことは、当時の報道をふくめて、いろいろな機会に聞くことがあり、なぜあのような現場でと、ずっと記憶に残ってきました。
東京から、阪神タイガースの応援で1人で搭乗した小学生の男の子のことなど、ご家族からお話を伺って、忘れがたい気持ちできました。
担架を使わず、最初にヘリに隊員に抱きかかえられて揚げられた中学生の女子は、ご両親が私の職場とも関係がある方で、そのご両親と妹が事故で亡くなり、北海道の家族旅行に参加していなかった兄と中学生の2人だけ、残されることになりました。
その後の成長のご様子を伺い、励まされる気持ちになったことを思い出します。
miee さんも、その上司の方のことは、ずっと覚えていて、思い出すことになるのでしょうね。
30年は長いですが、この航空会社のその後は、これまた映画でも取り上げられてきましたが、経験ある搭乗スタッフや、一線の整備担当者らが大量の首切りにあうなど、安全第一という面からは、問題を重ね続けてきたように思います。
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