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わが長野県では、那須の雪崩事故のあと比較的早い時期に県教育長が、「長野県の高校で、雪山禁止はありえない。危険だからとフタをするのではなく、どう危機を知り対処していくかを学び、豊かな経験をくれる登山をする機会を絶やさぬようにしたい」と山岳県の誇りを示す判断をしました。こうした理解ある環境で、10代のうちから北アルプスを始めとする豊富な信州山岳を庭として山岳部を希望する生徒が、震災以降増えているといいます。
長野県では、今回、高校生には高価なビーコンを20台購入し貸し出すことを決めました。那須の現場では少なくともビーコンは携帯しかつ習熟しているべき状況だったと思います。高校生よ、冬山へ登れ!という趣旨の本を昨年書いた身としては、ありがたい話です。
しかし、長野県と言えども現在、高校山岳部顧問の教員たちの山岳経験値は、私が高校生だったころとは比べ物にならないくらい減っています。1990年代に若者が登山離れした影響か、40歳代の教員で20代から続けている人は特に少ないと思います。私の親の世代は20代でほぼ全県民が登山をしていて、学校の先生たちはデフォルトで県内の夏山縦走のコース別難易度くらいは知っていました、多分。だから、「センセイ、明日あさって山で泊まってくるワ(授業ごめん、サボるワ)」「ああそう、気をつけて行ってきまショ」というシーンもありえたのです、実話ですよ。
高校生の分際でオリンピックやヒマラヤ目指せと言うんじゃありません。ふるさとの裏山の雪山でだって、10代でなければ、親や先生から離れなければ得られない体験というものは必ずあります。
高校教師じゃないけど、ボランティアでもいいから高校山岳部員にテコ入れしたいです。
ワカモノがみんな山に登っていた時代と言えば、先日実家で見つけた父と母の青年期、昭和30年代に一緒に男女グループハイキングに登っていた写真アルバムが出てきて感動しました。松本だから、鉢伏山や高ボッチ、美ヶ原の草原ハイキングです。マイカーなんかない時代だから、多分自宅から歩いてます。1950年代、アンナプルナ、エヴェレスト、K2,マナスルの初登時代、貧しかった地方の青年たちは裏山で遊んでいたのでした。
※写真は高校生ではありませんが父母の20代のときの松本近郊登山のものです。
yoneyamaさんの気持ち、もっともだと思います。
那須の事故が、文部省の「お達し」のきっかけになってます。
でも、
*あの事故の原因は、訓練に参加した生徒たちにあるのではなく、指導した大人たちの側にあります。
*また、全国一律の「お達し」にしてますが、各高校の先生や生徒達、教育委員会の対応を視野にいれた検討をした形跡もない。頭ごなしです。
高校生といっても、指導する先生や地域のフォローなど、条件は様ざまです。地域によっては、声をかけてもらったら、高校生のために、ひと肌ぬぐ、という山岳会や経験者らもいるはずです。
今度の事故原因は、きわめて特異なものです。
こういう一般的でない事故を「モデル」にして、全部禁止というのは、あまりにもわびしすぎます。
いま、ヤマレコにアップした分の、私の高校時代の記録を数えてみたら、16件ありました。
私は高校2年の秋まで野球部にいて、その後、松濤明、加藤文太郎、植村直己らに共鳴してきた気持ちを抑えられず、単独行が基本の山を始めました。
山岳部顧問に、山形大学山岳部OBの良い先生がいました。でも、一人の登山にあこがれていたので、先生には話を聞くだけで、基本的には一人で山へ通いました。
飯豊連峰縦走など大きな登山では、クラス担任の数学の先生に「登山届け」を提出しました。止められたので、以後は彼には頼りませんでした。
姉が労山に参加していたので、その事務所に通って、教えてもらったりしました。冬期の山も行きました。
いま、こういう経過を思うと、健気にやったものだとは思いますが、やはり、身近な山岳部の先生にもっと指導してもらうべきだったと思います。私のその後の山登りもずいぶん変わったはずです。
yoneyamaさんの言う通りです。
一律の「冬山禁止」は、取り下げて、各学校と地域の単位で、地域の指導者、教員とそのOBらの条件を生かしながら、良い体験が積める山岳部活動をすすめてほしいです。
それが、事故にあった生徒の無念によりそうことでもあると思います。
本当は、講習会とかガイドとかビーコンとかじゃなくて、自力で行く10代をお節介せず送り出せるだけの力量(影のバックアップ力)を、大人が持つべきなんですよね。いまの大人、全然駄目だよ。
まさに
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